“The Wizard of Oz”、オジー・スミス
「オジーが取れない打球は、他のどの野手も取れない」
と、メジャー史上最高の遊撃手といわれた。
○ 「1本のヒットが打てなくても、相手チームの2本のヒット性の当たりをアウトやダブルプレーに変えてくれるだけでチームは大助かりする」
○ 「よく、ベーブ・ルースの時代とは違うとか、1シーズン30勝もする投手がいた時代とは違うとかいって、昔の選手との比較を避けようとする評論家や選手がいるが、唯一の例外はオジー・スミスだ。彼をタイム・マシンでどの時代につれていっても、その時代で文句なしでナンバーワンの遊撃手になれる」

サンディエゴ・パドレスとセントルイス・カージナルスで活躍し、超人的なプレイに敬意を込めて”The Wizard of Oz”との異名を持つ。どんな打球も魔法使いのように捌いてしまうので、かの大ヒット、ミュージカル映画、「オズの魔法使い」(ジュディ・ガーランド主演)にあやかって、オズの魔法使いと愛称で親しまれた。1980年から13年連続で、ゴールドグラブ賞を受賞。怪物ぞろいのメジャーのトッププレーヤーの中でも、こと守備においては、すべてにおいて別格のプレーヤーだった。
ゴロは抜けない。ショート最深部の打球をレフト方向へ向きながら背走でジャンピングキャッチしたり、ヒット性の打球を体をかわしてゴロ捕球し、一塁へ矢のようなジャンピングスローをして投手を助けた。また時には、素手でゴロ捕球して倒れ込みながら素速いクイック・スローでセカンドやファーストでランナーをアウトにした。ゲッツーはお手のもので、どんな2塁手とコンビを組んでもコンビネーション・プレーは超一流。超人的な選手であった。
打球に対する入り方が、普通では考えられないものであった。ショートの前に高く弾んだ打球に対し、オジーはシロートのようなタイミングで入っていく。高く弾んだ打球に対するセオリーは、打球が地面につく寸前か、ショートバウンドで打球を処理する、というものである。それをハーフバウンドで抑えてしまっていたのだ。それだけ身のこなしが軽く、グラブさばきが柔らかかったといえるだろう。平凡なゴロをも、ファインプレーにしてしまう所以だろう。
身軽さは、こと野球においてフットワークの良さにつながる。そのフットワークを活かして、一般的な遊撃手の守備範囲より広いエリアをカバーしていた。守備範囲が広いと、必然的に打者が打った打球を処理する機会も増えるので、メジャー記録である補殺数は、彼の守備範囲の広さやフットワークの軽快さを裏付けているともいえる。
バック転、横っ飛びなど、体操選手のようなパフォーマンスでも観客を魅了した。試合開始時にショートのポジションにつく際、ファンを楽しませるためにアクロバティックなバック転を披露することでも有名だ。1995年のシーズン開幕戦でも40歳という年齢ながらバック転を行い、ファンを沸かせた。
このパフォーマンスは、1978年にサンディエゴ・パドレスのファン感謝デーで、球団職員の提案がきっかけではじまった。ファンに大人気となり、以降、オールスター戦やポストシーズンなどの特別な試合では必ず披露する、彼のトレードマークとなった。
アラバマ州モービル、作業労働者の父クロービス・スミスのもと、6人兄弟姉妹の2番目として生まれた。「ワンマン・ベースボール」で遊んだ。ボールを壁や階段に投げつけたり、屋根に放り投げ戻って来るボールを捕ったりしていた。最初のグラブは、スーパーの紙袋だった。目をつむったまま空中に放り投げ、捕球できるようになった。
「あれが原点」
という。
「あの頃から、いずれメジャー・リーグでやりたいと夢が広がっていった」
子供の頃の憧れは、郷土の生んだ大スターのハンク・アーロンであった。アーロンのようなHR打者に憧れていたものの、なかなか体が大きくならないことから、自らを守備で生かそうと思うようになってきた。
その後、ロサンゼルス・ワッツ地区に引っ越し、ロック・ハイスクール時代には後に殿堂入りすることになるエディー・マレー(*)とチームメイトとしてプレーした。そして、俊敏な動きが認められ、1977年のドラフトでサンディエゴ・パドレスから4位指名を受けてプロ入りを果たした。
1978年に、パドレスでメジャー・デビューを果たし、その守備で早くもパドレスのショートストップの座を自らのものにした。内野陣が手薄だったパドレスの中で、オジーの守備は注目を浴びた。打球はショートの左方向への強いゴロだったが、イレギュラーで打球の方向が右に変わってしまった。彼はダイビングする途中で咄嗟にグラブではなく素手を出して捕球するという、驚異的な反応を見せた。
この離れ業は、ファンも脱帽、彼の卓越した身体能力と、守備勘を示すエピソードとして有名。「オズの魔法使い」と呼ばれはじめたのは、この頃からだ。
「誰も、オジーには勝てない」
しかし、華麗な守備でチームを救う一方、打撃の非力さが目を引いた。1978年は打率.258、1979年は打率.211と目を覆いたくなるものだった。
しかし、やはり守備では常に力を見せた。1980年は遊撃手として621捕殺というメジャーリーグ記録を樹立し、自身初のゴールドグラブ賞を受賞する。以後ゴールドグラブ賞を獲り続けることになる。この年は57盗塁も記録し、守備と走塁で大きくアピールもした。
この捕殺数は1924年に往年の名ショートストップ、グレン・ライトの持つシーズン601捕殺という記録を塗り替える快挙でもあった。もはや神業であり、ショート最深部というよりほぼレフト前くらいのゴロを、ノーバウンドジャンピングスローでアウトにしたり、ダイビングしながらイレギュラーバウンドを素手で処理したりと常識では考えられないものだった。
パドレス時代(78~81年)は、球団から守備力を無視され、打率2割5分がやっとの貧打を追及された。年俸を抑えられたスミスが、そこで大バクチを打つ。地元新聞へ自ら出した“広告”の掲載だった。
「職 求む」。それを見て反応したのが、「守れる遊撃手」を探していたカージナルスだった。当時カージナルスを率いていたホワイティ・ハーゾグGM兼監督が、スミスの守備力に目をつけ、当時本拠地にしていた広い人工芝球場であるブッシュ・メモリアル・スタジアムではプラスになるとの判断あってのものだった。
ハーゾグGM兼監督が仕掛けた。6選手が絡む大型トレードであった。走攻守の三拍子が揃ったスター遊撃手、ガリー・テンプルトンと、オジー・スミスとの交換であった。79年にリーグ最多の211安打、それも史上初の左右両打席100安打を記録したスターだったが、ファンに暴言を吐いて出場停止処分を受けるなどのトラブルメーカーで、渡りに船と厄介払いに成功した。オジーはこの移籍に非常に落胆したが、ハーゾク監督はオジーの守備を、
「年間50~75得点ぐらいは食い止めているはずだ」
と、高く評価。多少の攻撃力の犠牲も、計算済みだった。
1982年のカージナルス移籍は、オジーにとって転機を迎えた。“伝説”の幕開けともなった。彼の活躍は、鮮烈だった。移籍1年目にして内野守備の中心となり、ワールドシリーズに出場して優勝。第2戦(対ミルウォーキー・ブルワーズ)では、二塁走者として、トム・ハーの犠牲フライで三塁走者に続いて二塁から生還。ハーはワールドシリーズ史上唯一(2008年終了時点)の「二点犠飛」を記録した。カージナルスを15年ぶり9回目のワールドチャンピオンに導く原動力となった。
その後も1985年、1987年とワールドシリーズに出場。また、ホームゲームでは毎年200万人以上と観客動員にも大きく貢献した。
「同じポジションで彼より凄いという選手を見たことがない。何が凄いと言えば、オジーのプレー以上のものを見るのは不可能だからだ」
と、ハーゾク監督も語った。
カージナルスの内野を鉄壁の守備陣に変え、ゴールドグラブ賞はもはやオジーの指定席となっていた。守備に磨きをかける一方、打撃力向上に向けて、ウェイト・トレーニングに積極的に取り組むようになり、打率も2割台から徐々に上がっていき、それが大きく実ったのは1985年のポストシーズンのことである。
1985年、地区優勝を果たし、ドジャースとリーグ優勝をかけて戦っていたシリーズ第5戦、2対2で迎えた最終回、オジーは左打席から劇的なサヨナラHRを放った。スイッチヒッターのオジーが左打席でHRを放ったのはこの時が最初で最後というほどの珍しいものだった。このシリーズで打率.435を記録し、シリーズMVPも受賞し、カージナルスのリーグ優勝に大きな貢献をもたらした。
「ショー・ミー・シリーズ」、または「I-70対決シリーズ」。むろん、相手はカンザスシティ・ロイヤルズ。両都市が「ショー・ミー・ステート」の愛称を持つミズーリ州にあり、州間高速道路70号線で結ばれている。審判による大誤審で知られるワールドシリーズだ。
その第6戦、3勝2敗と王手をかけていたカージナルスが1対0とリードして9回裏。ロイヤルズの先頭打者のゴロを捕球した一塁手がベースカバーの投手に送球したプレーを塁審だったデンキンガーはセーフと判定したが、映像では間違いなくアウトのタイミングだった。カージナルスが猛抗議するも、判定はそのままで試合続行。このプレーをきっかけにサヨナラ勝ちしたロイヤルズが、第7戦も制して逆転のワールドシリーズ制覇を達成することになった。球団創設17年目にして、初の優勝。
さて、オジーだが1987年には自身最高の打率となる.303をマークし、2塁打も40本記録するなど「守備だけの選手」という評価を完全に覆した。しかし、同年、肩の故障で守備力が低下すると懸念されたが、クイックスローを猛練習の末に会得して、それをカバーした。そして、オジーの1988年時の年俸234万ドルは、メジャートップの稼ぎでもあった。打撃力のアップがあったにせよ、守備の名手として、球界最高年俸をもらったのは後にも先にもオジーのみである。
遊撃守備についてはもはや「神業」と謳われる境地に達しており、遊撃最深部(というより、ほぼレフト前)のゴロをノーバウンドのままジャンピングスローでアウトにしたり、ダイビングしながらイレギュラーバウンドを素手で処理したり、という常識では考えられないものだった。
「(一試合の中で)スミスがそのバットで1点をたたき出すことは稀だ。しかし、彼はそのグラブで確実に2点は防いでくれる」
と讃えられている。
この頃オールスターのファン投票でも、ア・ナ両リーグを通じて最高得票選手にも輝いている。晩年は怪我に苦しむが、多くのファンがオジーを放っておかなかった。オールスターに選出されたのは15回あるが、ファン投票による選出は、そのうちの12回を数える。94~96年は試合出場も減ったのに関わらず選出されているのは、ファンの支持があったのに他ならない。
シーズンの開幕戦と閉幕戦で、ショートの守備に付く際、バック転を見せていたオジーも1996年6月、現役引退を正式に発表。各遠征先ではさながらオジーの送別試合となり、数多くの記念品が贈られた。この年の最終戦において、自らのバック転でメジャー19年間のキャリアを締めくくったオジー。“最終打席”は凡打に終わったが、観客はいつまでも温かい拍手を送り続けた。通算2460安打と、通算580盗塁をマーク。さらに、ショートとして史上3位となる2511試合に出場した点も見逃せない。
2002年には、資格1年目にして野球殿堂入りを果たした。
「殿堂入りする選手は一般に、ボールを球場の外へ運べるような選手。わたくしの殿堂入りがわたくしと同じように守備でチームに貢献する選手に道を開くことにつながればと願う」
そして、
「グラブは私に多くのものを与えてくれました。でもそれ以上に大切なのは心です。全国の少年少女のみなさん、どうか夢を描いてください。夢は必ずかないます」
と、右手に自身のニックネームとなった童話「オズの魔法使い」を携えて、あふれる涙をハンカチでぬぐいながらの受賞のスピーチであった。その後も、オズの魔法使いにちなんだ慈善活動に熱心に取り組み、多発性硬化症や子どもたちのための慈善活動に多くの時間を費やした。
現役を多く過ごしたカージナルスでの背番号「1」は、1996年の現役引退とともに永久欠番に指定されている。
(*)エディ・マレー;史上3人目となる3000安打・500本塁打を達成し、史上最高のスイッチヒッターとの呼び声も高い。通算504本塁打は、同じスイッチヒッターとしてはミッキー・マントル(536本塁打)に次ぐ歴代2位の記録だが、通算安打、通算打点はいずれもマントルを上回っている。


