The Last Manager、アール・ウィーバー
マイナーリーグの二塁手だったウィーバーは、決して目立つ選手ではなかった。メジャーに昇格することはなかったが、AAイースタンリーグのエルマイラ・パイオニアーズ監督を経て、37歳の若さでオリオールズの監督に大抜擢された。1968年のシーズン半ばのことだった。バウアーが退任し、かれの指名で監督を引き継いだ。すると、いきなり優れた采配をふるって、就任2年目にリーグ優勝。そして、3年目の1970年には、ワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
1960年代から1970年代にかけて黄金時代を築いたボルチモア・オリオールズは、ウィーバーという名将なくして語れない。優勝できなかった年でも、大崩れがなかった。2位が5回もある。たいしてカネをかけないで、チームを強くする監督と、引退しても評判が絶大だったのだ。
アール・ウィーバー(Earl Sidney Weaver)は、1930年8月14日、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス出身。 ニックネームは、「Earl of Baltimore(ボルティモア伯爵)」。監督通算1480勝。1996年、アメリカ野球殿堂入り。
通算15年におよぶオリオールズの監督歴で、地区優勝が6回、そのうち4回はワールドシリーズまで駒を進め、ワールドシリーズ制覇は1度だった。就任2年目の1969年、この年より東西2地区制を採用したが、ア・リーグ東地区の初代チャンピオンとなり、ミネソタ・ツインズに3連勝してワールドシリーズ進出。この年より、3年連続で地区優勝・リーグ優勝を果たした。
その後も1973年、1974年に地区優勝するが、当時ワールドシリーズ3連覇を達成中であったオークランド・アスレチックスに敗れる。1979年には、前年までワールドシリーズ連覇を続けていたニューヨーク・ヤンキースを破って地区優勝。 プレイオフでもカリフォルニア・エンゼルスを破るが、ワールドシリーズではふたたびパイレーツに敗れた。
有利が予想された1969年のワールドシリーズは、ミラクル・メッツと呼ばれたニューヨーク・メッツに敗れたが、1970年のワールドシリーズでは、日の出の勢いのシンシナティ・レッズを破りワールドチャンピオンになる。翌1971年もリーグ優勝を果たしたが、ワールドシリーズは爆発的な攻撃力を持つピッツバーグ・パイレーツに敗れた。
しかしながら、なにしろその年代のオリオールズには、ジム・パーマーをはじめ20勝以上挙げた先発投手が4人もいて、一塁には1970年ア・リーグMVPの巨漢ブーグ・パウエル、二塁には後に巨人入りしたデーブ・ジョンソン、三塁には『人間掃除機』の異名を持つ名手ブルックス・ロビンソン、外野には三冠王と史上初の両リーグMVPに輝いたフランク・ロビンソン、そしてゴールドグラブ賞を8度受賞した名センターのポール・ブレアーと、そうそたるメンバーが揃っていた。
ウィーバーは、破天荒な行動をしばしばみせることがある。一般的な監督の常識をはるかに超えており、その破天荒さが人々の記憶に残るのだ。その行動一つ一つに、野球に対する並々ならぬ情熱が感じられ、それが観る者を感動させる。とりわけ、審判とのバトルは、まるでドラマのような面白さがあり、観る者を飽きさせなかった。ユーモアセンスも抜群であって、彼のユニークなキャラクターは、単なる野球監督だけではなく、エンターテイナーとしても才能を発揮していたことを物語っていた。
選手との人間関係をも大切にしていた。厳しい指導の一方で、選手たちのことを家族のように思い、時には叱咤激励し、時には励ましの言葉をかけた。試合前のルーティンや、試合中の集中力など、彼の野球に対する姿勢は、多くの選手に影響を与えた。
戦術的には、「ピッチング、守備、3ラン本塁打」を重視し、盗塁、ヒットエンドラン、送りバントをあまり好まなかった。 「1点しか取りにいかなかったら、1点しか取れないではないか」
3ランは一つのたとえで走者をためての長打の可能性にかけていた。また、選手の記録統計をとり、相手投手との相性を重視してしばしばメンバー、打順を変えた。1972年のスプリングトレーニングでは初めてスピードガンを本格的に使用して、球速を計測している。
それと、ウィーバーは、まだデータ分析がそれほど重要視されていなかった時代から、選手の成績や対戦相手のデータなどを詳細に分析し、それに基づいた起用をおこなっていた。たとえば、特定の投手に対して強い打者、弱い打者などを細かく分析し、オーダーを組んでいた。
それはもちろん、状況に応じて柔軟に選手を起用する。試合の状況や相手チームの投手によって、打順や守備位置を頻繁に変更していた。同時に、経験豊富なベテラン選手と、将来を期待される若手選手をバランス良く起用していた。ベテラン選手にはチームを牽引する役割を期待し、若手選手には積極的にチャンスを与えていた。もう一つ、ある特定の選手を、特定の状況で必ず起用するというような、独自のルールを持っていた。満塁の場面で必ずある選手を代打に送るなど、彼の采配は常に注目を集めた。
プラトーン・システムの積極的な活用をはじめたのも、ウィーバーだった。プラトーン・システムとは、打者の左右と投手の左右の組み合わせによって、打率が変化するという考えに基づいた起用方法。彼は、このシステムを積極的に活用し、打線の破壊力を高めていた。大胆な采配でも試合を盛り上げた。ピンチの場面でバッターにサインを出す際、わざと大きくジェスチャーをして相手チームを攪乱したり、変わった守備シフトを敷いたりといったこともあった。
ウィーバーは、とにかく退場の多い監督で、通算退場回数は97回、ワールドシリーズでも退場を経験している。気性が荒く、いつも審判に食ってかかるイメージの強い監督だ。チームの士気を高めるための行為ではあったのだが、その言動が災いして、通算97回も退場させられた記録を持っている。これは当時、1900年代前半に監督として2700勝以上をあげ、『リトル・ナポレオン』と讃えられたジョン・マグローに次ぐ回数だ。
ウイーバーと審判とのバトルは、彼の監督としての情熱とユニークなキャラクターがよく表れている。判定に納得がいかず、審判に向かって「ボール!」と叫びながらマウンドへ突進し、審判と激論を交わしたエピソードは、彼の情熱的な一面をよく表している。
判定に激怒し、ユニフォームを脱ぎ捨てて抗議したこともある。彼のこの行動は、多くの野球ファンを驚かせるとともに、彼の野球に対する情熱の深さを物語っている。あるいはまた、判定に我慢できず、審判の帽子を叩き落としてしまったというエピソードも。彼の激しい感情の起伏がうかがえる一幕だ。
これらのエピソードは、ウィーバーがいかに野球に真剣に取り組んでいたか、そしていかに勝利にこだわっていたかを示している。熱すぎる抗議は、時にはチームを鼓舞し、時には相手チームを挑発し、試合をよりドラマチックなものにした。
1969年のワールドシリーズ第4戦では審判の投球判定に文句を付けて退場となり、1910年のフランク・チャンス、1935年のチャーリー・グリムに次いでワールドシリーズで退場処分を受けた史上3人目の監督となった。
「あまりにボールの判定に口が多すぎる」
との理由で、クロフォード主審から処分をうけたものだった。
「しかし、きみとは何も話していないじゃないか」
と、ウィーバーは抗議するも、
「一つだけ確かさ、きみは今日はもう私と話さなくてもいいのだ」
と、クロフォードは答えた。
試合前のメンバー交換でプレートに集まったときに、前日のプレーに文句をつけて、試合前にもかかわらず、「退場」。たばこが好きで、いつもプカプカ。ダッグアウトで吸ってるのを見つかって、「退場」(ルールでアウト)。仲の悪かった最年長審判のビル・ハラー。かれの弟がタイガースの捕手をしていたため、
「弟のチームにひいきしてるだろう」
などと、やたらと文句をつけていた。当然のごとく、「退場」。そんな具合で、アメリカン・リーグの審判全員と敵対関係にあったのだ。ただし、ルールには詳しく、ルールを誤解した抗議は一度もなかったため、審判はウィーバーの抗議には戦々恐々としていた。
そんな審判の中でも、とりわけロン・ルチアーノとはたびたび衝突した。ウィーバーは、マイナーリーグ(AAイースタンリーグ)で初めてルチアーノに出会った試合から4戦連続で退場させられている。1968年にウィーバーがメジャーリーグの監督になると、翌年にはルチアーノもメジャーの審判に昇格した。以後メジャーでウィーバーがルチアーノから受けた退場処分は通算8回、その中には1975年8月15日のダブルヘッダーで2試合とも退場させられたものを含む。
1978年には、ついにはオリオールズの試合にルチアーノが審判として当たらないようアメリカンリーグが調整する事態に至った。ルチアーノは引退後に出版した著書『アンパイアの逆襲-The Umpire Strikes Back-』で、「審判時代に嫌だった監督・選手のワースト10」を挙げているが、そこには1位から9位までがすべてアール・ウィーバー、10位には「アール・ウィーバーの手下のフランク・ロビンソン」と書かれている。そのルチアーノが1995年に排ガス自殺したさいに、その報に触れたウィーバーは我先に哀悼の意を述べた。
ウィーバーの数々の名言は、野球に対する情熱や哲学が込められていて、どれも印象深いものばかり。特に有名なものとしては、「野球は9回裏2アウトからはじまる」 という言葉がある。これは、どんな状況でも諦めずに最後まで戦い抜くという、彼の不屈の精神を表す言葉として広く知られている。
ほかにも、「エラーは野球の一部だ」 という言葉も印象的だ。完璧なプレーばかりができるわけではない、という現実を認めつつも、そこから学び、成長していくことの大切さを教えてくれる。彼の哲学が詰まった言葉は、今もなお多くの野球ファンに語り継がれている。
82年の2位を最後に勇退するが、85年にジョー・オルトべリ、カル・リプケン(代理監督)の後を受けて監督に復帰。86年も采配を取ったが、76勝86敗と負け越し、7位となって辞任した。ウィーバーは最終年を除いて、メジャー、マイナーの監督歴で負け越したことがない。これは偉大な記録だ。
さらには1956年に25歳で、マイナー最下級のD級で監督に就いてから、27シーズンにもわたって監督を続けて来た。マイナー時代からをも含めて、なんと25シーズン連続勝率.500以上と、おどろきの記録をももっている。
ウィーバーは、選手の実力を引きだす名人とも評している。確かに選手起用は巧みだった。フランク、ブルックスの両ロビンソンを使いこなしたのは、ウィーバーの功績だろう。同時に、パーマー、マクナリーという子飼いの大投手が長く働いたことも大きい。あの歴代1位となる2632試合連続出場を記録したカル・リプケン・ジュニアを三塁手から遊撃手にコンバートしたのも、ウィーバーである。
そんななか、ウィーバーとブルックス・ロビンソン選手のコンビは、メジャーリーグの歴史において温かい関係と信頼非常に興味深い関係として知られている。ブルックス・ロビンソンは、オリオールズの主力選手として、その卓越した守備力で知られる名三塁手だった。 ウィーバーは、ロビンソン選手の能力を高く評価し、チームの中心選手として信頼していた。ロビンソンは、チームメイトからの信頼も厚く、チームのリーダーとしての役割も担っていた。
ロビンソンも監督を深く尊敬していた。二人の強い絆は、チームの勝利への原動力となり、オリオールズは数々の栄光を手にした。二人は互いの性格や考え方を深く理解し合っていたため、円滑なコミュニケーションが取れていたと考えられる。チームの勝利という共通の目標に向かって共に努力したことも、二人の絆を深めたと考えられる。それに、ロビンソン選手が温和な性格であったことも、二人の良好な関係を築く上で大きく貢献した。
その一方で、野球殿堂入りのエース、ジム・パーマーとの確執は有名で、たびたび論争を繰り返した。後に、
「パーマーのおかげでこんな白髪だらけになってしまった」
と語っている。二人の関係は、勝利への執念、性格の対比、世代間のギャップなど、様々な要因が複雑に絡み合って生まれたものと考えらる。
チームの勝利のために、時には選手を厳しく叱責することで知られていた。パーマーもその例外ではなく、二人は頻繁に衝突し、口論になることが何度もあった。パーマーはサイ・ヤング賞3回受賞の実力派投手だったが、同時に非常にプライドの高い選手でもあった。ウィーバー監督の厳しさに反発し、公然と監督批判をし、自分の投球スタイルを貫こうとしたこともあったのだ。
二人の衝突は、チームの成績に影響を与えた一方で、メジャーリーグの歴史に残るドラマとして語り継がれている。パーマーが現役を引退した後も続いたといわれている。
さても、ウィーバーの風貌はというと、名野球解説者パンチョこと、伊東一雄は、
「ミッキー・ルーニーと、金太郎サンを足して2で割ったようなもの」
と表現していた。ブルックス・ロビンソンは、
「見かけはおよそスマートじゃないが、心の中は実にスマート。我々の気持ちをよくわかってくれる」
と評している。また、彼によると夫人はロッサナ・ポデスタ(イタリアの女優)そっくりの並外れた美人だったという。
1982年限りで、一度監督を退任。この時にこれまでの功績を称えられ、ウィーバーの背番号『4』はオリオールズの永久欠番に指定された。翌1983年よりオリオールズの専属解説者となり、同年後任監督ジョー・アルトベリによってワールドシリーズ優勝を果たすが、その瞬間は解説者として放送ブースに居た。 1985年途中に、アルトベリに代わって再度監督に復帰。しかし、翌1986年には17シーズン目で初めて勝率5割を切って地区最下位に終わり、このシーズンを最後に監督を退任。
引退後、1996年にベテランズ委員会の選考によってアメリカ野球殿堂入りを果たした。2013年1月19日、カリブ海をスポンサー主催のクルージング中に心臓発作で急逝する。82歳没。偶然にも、殿堂入りを果たしたスタン・ミュージアルと同日の死去だった。