ジョージ・ブレット 打率4割への挑戦
MLB史上最高の三塁手の一人。1980年に打率3割9分を記録し、テッド・ウィリアムズ 以来の打率4割達成に近づいた。通算打率.300以上、3000安打、300本塁打を同時に達成したMLB史上わずか5人の選手のうちの一人(他はハンク・アーロン、ウィリー・メイズ、ミゲル・カブレラ、スタン・ミュージアル)。通称、「トリプル・ミリオネア」(3つの大台達成者)。この記録は、高いアベレージを残しつつ、長打力と長いキャリアを通じて安定した成績を残し続けた、ごく限られたスーパースターのみが達成できる極めて稀な記録である。

史上唯一、3つの異なる年代(1970年代、80年代、90年代)で首位打者を獲得。これもまた、長期間にわたる卓越した打撃技術の証。唯一無二の記録達成者である。13年連続オールスター出場を果たすなど、メジャーリーグを代表する三塁手として攻守にわたって活躍した。 ロイヤルズ一筋。カンザスシティ・ロイヤルズは、1969年にエクスパンション(球団拡張)により創設された。あだ名の由来は、「王侯」の気品と権威にあやかって選ばれたというとそうではないらしい。球団幹部によると、こうだ。
カンザスシティは全米有数の畜産の街であって、毎年看板行事であるロイヤルズ家畜ショーが開かれているところから命名されたということらしい。ちなみに戦後、マイナー・リーグのAAA級に同名の球団があった。モントリオール・ロイヤルズ、あのジャッキー・ロビンソンが在籍したドジャース系ファームだ。直接的な関係はない、それぞれ異なる球団である。
ブレットは、野球一家に育つ。父親ジャックは、第二次世界大戦の退役軍人で非常に厳格な人物だった。ウエストバージニア州ホイーリング出身。家族は彼が2歳の時にカリフォルニア州南部のエル・セグンドというロサンゼルス郊外の街に引っ越し、そこで育った。 成績優秀でスポーツもこなす3人の兄たちとは対照的に、ジョージは学校の勉強に興味がなく、父親からは、「人生を無駄にしている」と、常に怒鳴られていた。
父親からの絶え間ない批判とプレッシャーは、彼に大きな苦痛を与えたが、同時に「見返してやる」という激しい競争心とモチベーションの源泉にもなった。後に、もし父親が違っていたら、あれほどのドライブ(意欲)は持てなかったかもしれないと語っている。
野球への道のりは、兄たちの影響が強かったのと、もう一つフットボールでの挫折があった。3人の兄のうち、ケンはMLBで投手としてプレーしており、他の2人もマイナーリーグでのキャリアがあった。彼らの後を追う形で野球を始めたが、当初はフットボールの方が好きだった。高校時代はクォーターバックであったが、インターセプトが多くてワイドレシーバーに転向させられるなど、フットボールでの大学奨学金を得る夢は叶わなかった。
どの大学からも奨学金のオファーがなかったため、野球でのプロ入りを決意した。18歳の彼にとって学校教育は二の次で、プロの世界で成功するという競争心が彼の人生を決定づけたのだ。
1971年、ドラフト2巡目でロイヤルズに入団。2年後の1973年、メジャーに昇格。74年、133試合出場、打率0.282と数字は残したが、惜しくも新人王はのがした。レンジャースのハーグローブのほうが上回ったのだ。不運だった。1976年に、打率3割3分3厘で初の首位打者。1番打者としてシーズン200安打を2度記録、メジャーを代表する巧打者に成長した。プロ入り当初は遊撃手だったが、すぐに三塁手へ転向。
ブレットのキャリアにおける最大の分岐点は、キャリア初期のチャーリー・ラウ打撃コーチとの出会いと、1980年の4割挑戦と、それに伴うケガの3点に集約される。
メジャー昇格当初は打撃に苦しみ、打率も低迷していた。しかし、1974年シーズン中に当時の打撃コーチ、チャーリー・ラウに指導を仰いだことが、彼のキャリアを根本的に変えた。 ラウはブレットに、プレート全体をカバーする方法や、経験豊富な投手陣が突いてくるスイングの弱点を克服するための技術を教え込んだ。
この指導により、ブレットは打者として急速に成長し、その年初めて打率3割(.308)を記録、リーグ最多安打と最多三塁打を達成した。これは、彼が後に殿堂入りする偉大な打者となるための技術的な基礎を築いた決定的な転機だった。
1980年シーズンは、3年連続アメリカンリーグ西地区優勝に貢献。いずれもニューヨーク・ヤンキースとのリーグ優勝決定戦に敗れたが、初のワールド・シリーズ出場。ブレットの選手としての評価を不動のものとしたが、同時にキャリアを通じて悩まされるケガの始まりでもあった。
かれはワールド・シリーズ出場記念の指輪が欲しくてたまらなかった。兄のケンはレッドソックス時代にもらっていた。このときケンは19歳、史上最年少の投手だった。
「兄がワールド・シリーズ出た日をまだ覚えている。第5試合の夜は遅くなって足を忍ばせて帰宅した。滅多打ちにされたとわかった。兄の同僚のライアンは私をかわいがってくれた。兄と彼からワールド・シリーズの話を聞きながら育ったのだから、私が出たいと思うのは当然の成り行きだ」
と振り返ったものだ。
この年はまた、ブレット最高のシーズンといえ、オールスター明けから調子を上げた。9月19日まで打率4割以上をマークして、テッド・ウィリアムズ以来の打率4割を達成できるかと期待されたものの、その後不調に陥るなど打率を下げ、結局このシーズンは打率3割9分で2度目の首位打者。この年アメリカンリーグMVPを受賞。
シーズン序盤の5月時点では打率が.260前後を推移しており、当初は4割挑戦を予想する者はいなかった。しかし、6月と7月に調子を上げ、7月には月間打率.494を記録するなど驚異的なペースで安打を量産した。8月17日の試合で4打数4安打を記録し、打率を初めて4割台(.401)に乗せた。8月26日にはキャリアハイの打率.407に達した。
シーズンが進むにつれ、メディアやファンからの注目は日増しに高まった。ブレットは、
「当初は楽しんでいた」
と、語る一方、連日同じ質問に答えるためにチームメイトから離れて記者会見に応じるなど、隔離された状態にストレスを感じていた。
「4割を打ちたい。誰よりも4割を達成したい」
と思っていたが、その思いが強まるにつれ、自身の打撃へのアプローチが変化していった。4割挑戦について、
「個人成績への過度な意識が、自分の本来のゲームを狂わせた」
と振り返っている。
9月19日の時点でちょうど打率.400を維持していたが、残りのシーズン13試合で打率.304とペースが落ち、最終的に打率は.390でシーズンを終えた。 もともとは、
「ボールをフィールドに転がし、ヒットを打つことだけを考えていた」
のが、4割が現実味を帯びてくると、
「4割を打とうと、意識的に狙う」
ようになってしまったと語っている。 当時、ロイヤルズは地区優勝争いで独走しており、ブレットは、
「キャリアで初めて、チームの勝利よりも自分の成績(4割達成)の方が重要だと感じてしまった」
ことが、終盤の失速につながった最大の要因だと分析している。その結果、力みが生じ、打率は.390まで、
「急落した」
と述べている。
この.390という打率は、ウィリアムズ以降のMLBシーズン最高打率であり、トニー・グウィンが1994年の短縮シーズンに記録した.394に次ぐ記録。この圧倒的な打撃成績により、アメリカンリーグのシーズン最優秀選手(MVP)を受賞した。この挑戦はMLBの歴史に残るハイライトの一つであり続けた。ブレット自身はプレッシャーと戦いながらの苦しい経験だったと明かしつつも、その功績はアメリカンリーグMVP受賞という形で報われ、彼の伝説を確固たるものにした。
怪我は彼のキャリアを通じての懸念事項となり、その年痔の手術後もファンからの心ない野次に悩まされることにもなった。この時期の怪我と向き合いながらのプレー経験が、彼の精神的な強さをさらに高めたともいえる。
先の1978年も、肩を痛めたり、親指を痛めたりと出場試合は126試合だった。いかんせん攻守走のハッスルする男だけに、とにかくケガが多い。あげくはその年のオフ、チャリティ・バスケットボールがおこなわれた。フットボールのチーフスとの対戦だった。白熱戦で大いに盛り上がり、大成功をおさめたのだが、GMジョー・バークが心配していたとおり、自軍のブレットが親指を骨折してしまったのだ。
1983年6月7日のこと、ブレットは自宅で洗濯をしていると、別の部屋から、「次の打者はビル・バックナーです」というテレビ中継が聞こえてきた。親友バックナーの打席は見逃せまいと急いで部屋に行こうとしたその時、ドアに左足をぶつけてつま先を骨折。3週間の離脱を余儀なくされた。もっとも、その年は123試合に出場して打率.315、リーグ1位のOPS.985を記録するなど、ケガを忘れさせる活躍を見せたものだ。
さらにもう一つ、「パインタール事件」は、MLBの歴史に残る有名なエピソードである。同1983年7月24日、ヤンキー・スタジアムでのニューヨーク・ヤンキースの試合。3-4とヤンキース1点リードで迎えた9回表二死一塁から、ブレットがヤンキースのクローザー、リッチ・ゴセージから逆転の2点本塁打を放った。ここで、ヤンキース監督のビリー・マーチンが、ブレットのバットには滑り止めのための松ヤニ(パインタール)がMLBの公認野球規則で許容される範囲を超えて塗られており、違反バットであると抗議した
逆転ホームランがバットの松ヤニ(パインタール)の規定違反で無効とされた後、大声を張り上げ激怒して審判に詰め寄る姿は今でも語り草となっており、最終的に裁定が覆りホームランが認められた。球史に残る大珍事としても語り継がれている。それには、顛末のレア度に加え、キャストの豪華さもありそうだ。ブレット、ゴセージ、会長マクフェイルの全員が殿堂入りしているし、仕掛け人のマーチンも背番号「1」はヤンキースの欠番となっている。
球審のマクレランドはそれを認め、違反バットを使ったブレットはアウト、すでに2アウトだったので試合終了という判定。ブレットは猛抗議したが、判定は覆らず。大騒ぎとなった松やに事件だが、これはヤンキースのビリー・マーチンの策略。実は、マーチンはブレットのバットが違反であることを以前から知っていて、そのことを持ち出す好機をずっとうかがっており、これ以上ない場面で指摘したのだ。
ロイヤルズは、この裁定について提訴。試合の4日後、アメリカンリーグのリー・マクフェイル会長は、ブレットはルールの精神を犯したわけではないとしてロイヤルズの提訴を支持。つまりホームランは有効なので、5対4の9回表2アウトから試合を再開しなければならないこととなった。
主催者であるヤンキースは、再試合は残り4アウトしか残っていないのに、入場料は普通の試合と変わらない額にすると発表。すると怒ったファンが裁判所に訴え出た。裁判所は、正式な試合をするようにという判決。とうとう裁判はニューヨーク最高裁の上訴審まで持ち込まれ、結局、裁判長のサリバンは「プレー・ボール」という判決を下し、料金は割安で9回表2アウトから試合は再開。
集まった観客は1,200人のみだった。ブレットのホームランから25日後の両チームのオフ予定日だった8月18。試合の残りは10分足らずで終了し、5-4でロイヤルズが勝利し、騒ぎはようやく決着した。ブレットの本塁打は有効とされたものの退場処分は取り消されなかったため、ブレットは再開試合に出場できず、翌19日からボルチモア・オリオールズとのダブルヘッダーを含めた4連戦が行われるメリーランド州ボルチモアへ向かった。ブレットの一打は「決勝本塁打」ならぬ「決敗本塁打(game-losing home run)」と評された。
実際のところ、ボールを節約しようとしていた100年くらい前の古くさいルールがまだ生きていたのだ。バットのバレルに松ヤニが多すぎると、ボールが使えなくなる。このルールは、競争の不均衡が理由でできたわけじゃなくて、リーグが単にケチで、余分なボールにお金をかけたくなかっただけ。
1979年5月28日と1990年7月25日の2度、サイクルヒットを達成。1985年には、ブレットは悲願のワールドシリーズ制覇に貢献し、ゴールドグラブ賞も獲得。1990年に打率.329で3度目となる首位打者を獲得。前述した3ディケイド(1970年代、1980年代、1990年代)で首位打者に輝いた。1992年にはカリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)戦で7回に右前安打を放ち、3000本安打を達成。
現役最後の日(最終試合)は、1993年10月3日。 テキサス州アーリントンのアーリントン・スタジアムで行われたテキサス・レンジャーズ戦が最後の試合だった。この試合で、ブレットは現役最後の打席でキャリア通算3,154本目となる安打を記録した。また、この試合はレンジャーズのノーラン・ライアンの引退登板でもあり、両スーパースターの最後の舞台が重なる形となった。
なお、カンザスシティでの最後のホームゲームは、その数日前の1993年9月29日に行われ、試合後にホームプレートにキスをする感動的なセレモニーがあった。
「平凡なセカンドゴロを放ち、一塁で間一髪アウトになりたい。それが子供たちに伝えるメッセージだ」
と、印象的な言葉を発した。通算3154安打 317本塁打 1595打点など、ニックネームである「ゴージャス・ジョージ」に相応しいロイヤルズでの数々の球団記録を保持し、1999年には資格1年目にしてアメリカ野球殿堂入り。

