ミスター・クール、マイク・シュミット
フィリーズの主砲であり、精神的支柱であり、どんな事態でもあわてないミスター・クールだった。通算548本塁打。ナショナル・リーグ最多の本塁打王8回・打点王4回と、その凄まじい長打力も魅力的だが、傑出した守備の持ち主でもあり、ゴールドグラブ賞10回と守備面でも高い評価を得ている。『史上最高の三塁手』と称される。
身長188cm,体重90キロというややスリムな体格はホームランバッターらしからぬものだが、実力派であり、したたかな野球職人なのだ。かのピート・ローズは、
「シュミットの体が手に入るなら、全財産と妻とのトレードでもいい」
とまでいった。シュミットは現役18年間をフィラデルフィア・フィリーズでまっとうし、引退後も傘下のマイナーで監督をする、まさしくフランチャイズ・ヒーローだった。1990年には、背番号「20」がフィラデルフィア・フィリーズの永久欠番に指定され、1995年に殿堂入りした。

1949年、オハイオ州デイトン生まれ。フェアビュー高等学校を卒業し、オハイオ大学で建築学を専攻。長打力も守備力も高かったマイク・シュミット。大学ではカレッジ・ワールドシリーズ進出に貢献し、遊撃手のベストナインに選ばれた。
1971年MLBドラフト2巡目(全体30位)でフィラデルフィア・フィリーズと契約し、AAで26本塁打を打ち、2年目にはメジャーデビュー。しかし、この年18本塁打を放ちながらも、打率.196の低打率に加え136三振を喫し、屈辱のシーズンを過ごした。
メジャーの高いレベルを思い知らされたシュミットはそのオフ、プエルトリコのウィンターリーグで、当時フィリーズの監督だったダニー・オザークや打撃コーチのボビー・ワインからのアドバイスもあり、ゆったり構えていた打撃フォームを投手に背中が見えるくらいにねじり、背中をゆすりタイミングを合わせるという打撃フォームへ変更。シーズン終了後にフィリーズは正三塁手のドン・マネーを放出した。
サードのレギュラーとして迎えた1973年、打率.196ながら18HR、52打点を記録。長打力の片りんを見せつけた続くメジャー3年目1974年には一気に成長を見せ、打率.282、36HR、116打点でHR王を獲得。オールスターにも選出され、一躍スターダムにのし上がった。
6月10日、アストロドームで行われた対アストロズ戦では打球が天井からつるしてあったスピーカーに直撃。ボールはフィールドに落下し、グラウンドルールによりインプレー。当時、このスピーカーに当たることを誰も想定していなかったため「史上最長のシングルヒット」となった。
シーズンでは36本塁打を放ち初のナショナルリーグ本塁打王となり、以後、2年連続38本塁打で1976年まで3年連続本塁打王。3年連続三振王のおまけもついてきたが、荒っぽかったが、確実性がうんと増してきた。
1976年4月17日のカブス戦では、1試合4本塁打を記録。試合は3回終了時に13対1でカブスがリードしていたが、延長10回にシュミットの本塁打で、18対16でフィリーズの勝利。この試合、シュミットは1試合8打点。ゴールドグラブ賞を受賞。その後毎年選出され続ける。守備範囲が広く、強肩。堅実かつ華麗、軽快な動きでまた足も速かった。75年-76年と連続で20盗塁を記録、俊足ぶりをもみせつけた。
このミスター・クールが一度だけ怒ったことがある。1977年のこと。対メッツ3連戦で、2四球を受け、かろうじて避けたケースが1回あった。ついで対パイレーツ戦の第1戦のこと。相手投手が投げたボールが、よけたシュミットの背中を通過した。
「おれはトラブルはごめんだ。だが、もう一度あんな球を投げたら、この次は承知しないぞ」
投手も黙ってはいない。
「この次だって、待つことはない。今やればいいじゃないか」
これで、ミスター・クールは激昂した。マウンドにつめより取っ組み合いの喧嘩になった。両軍ベンチから全選手が飛び出し、大もめ。騒ぎが収まったあと、シュミットは右手の薬指が痛むのでみてもらったら、骨にヒビがはいっていた。直後の3試合を欠場する羽目になってしまった。その間チームは負け続けたものだ。シュミットは大反省。
「バカなことをしたもんだ」
1978年、不調に終わり、ゴールドグラブ賞は受賞できたものの、オールスターには選出されなかった。シュミットはツキに見放されていたようだ。まあ、それまでツキすぎていたのかもしれない。オフにはフィリーズの評価は高く、メジャーリーグ最高額で5年契約を結び、サラリーナンバーワンのいじにかけ巻き返すかと思ったら故障欠場に続き、あげくはスランプに陥ってしまった。そこで、監督ダニー・オザークは動いた。シュミットに思い切った打順変更を行ったのだ。3番・サードが定位置だったが、8月終わり頃から、1番に上げたのだ。結果的には、効果があった。
「こうすれば、打席数が増えるからね」
といったものの、真意は宿敵ピート・ローズへの敵愾心をもえたたせようとしたのかも。30歳を過ぎてから、打撃は円熟味を増し、三振が減り、四球も増えた。
1979年には45HR、114打点を挙げて復活。1980年には48HR、121打点で二冠とMVPを獲得。チームのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。1980年には、48本塁打、121打点で二冠王となりフィリーズの地区優勝に大きく貢献。満票で初のナショナル・リーグMVPに選出。同年のワールドシリーズでもフィリーズ初の世界一に貢献し、シリーズMVP。
フィラデルフィアの歴史上、最も長くプロアスリートとしてのキャリアをまっとうしたシュミットは、1980年にワールドチャンピオンとなったフィリーズのメンバーの現役最後の一人だった。
「疑いようもなく、1980年は私のキャリアの転換期だった」
彼はそう話した。
「私が死ぬまであら捜しをしてくるような多くのフィラデルフィアの人々をも黙らせることができたと思う。ソロホームランを試合終盤に放っても何の意味もないという意見も多く聞いた。浅はかなファンにとってはその意見も当然だった。私は70年代のプレーオフでは平凡だったからね。1980年のプレーオフでも及第点だっただろう。だが、ワールドシリーズ進出の手助けとなれたことを誇りに思っているし、最終的にワールドチャンピオンとなった年にチームのためにメジャー昇格を果たせたという事実も誇らしく思う。私は1980年に役割を果たし、それからフィラデルフィアに顔向けができるようになった」
1981年はストライキのためシーズンが短くなったが、102試合で31本塁打・91打点で昨年に続き二冠王となり、ナショナル・リーグMVPに選出。1983年は40本塁打・109打点を記録し、3年ぶりに40本塁打・100打点を達成。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは20打数1安打に終わり、チームは1勝4敗で敗退。シーズン終了後には、年俸210万ドルの4年契約に合意。
1984年のこと、オーエンス監督と対立。まあ、メジャーでは日常茶飯事のことだが、オーナーにとっては歓迎されることではないのだ。ケンカ両成敗としたいところだが、監督の代わりはいくらでもいるが、選手となればそうはいかない。そこで、監督の挿げ替えが頻繁におこるのだ。結果として、オーエンスは追い出されてしまった。
1986年は37本塁打・119打点で二冠王となり、5年ぶり3回目のナショナル・リーグMVPに選出。1985年には一塁を守ることが多くなるが、極度のスランプから立ち直れない。7月1日のこと、好機にぶざまな三振。ファンから猛烈なブーイングを浴びた。が、翌日の試合前、なんとヒッピー風の長い髪のかつらと濃いサングラスをつけ、練習に参加したのだ。これにはチームメイトも、観客も大笑い。気持ちはわかるよ、てな具合だろう。シュミットはといえば、
「ヤジで冷静さを失わないように」
と、言い訳をしたものだ。翌年、ふたたび三塁に戻る。
そんなシュミットだが、同じ野球殿堂入りのパイレーツの宿敵デーブ・パーカーが、自身のバッティングについて語っている。そこで、ちくりと皮肉られているのだ。

「わたしはコンタクトがうまい打者だ。30〜40本の本塁打打者になる力を持っているが、自分を欺くことになる。よく走れるし、球を地面に叩きつけられる、外野の反対方向に流すことができる。シュミットのように栄光の打球は放たないが、かれの2倍出塁しようとしている」
パーカーは、じつにそれを実践して2度の首位打者のタイトルもとっているのだ。愛称は、「ザ・コブラ」。強打と好守の外野手として、1970年代と1980年代を代表する選手の一人として活躍。パイレーツ在籍時の1978年にナ・リーグ最優秀選手(MVP)に輝き、首位打者を2度獲得。メジャー通算19年間で2712安打、339本塁打をマークした。その78年のこと、パーカーはなんとアイスホッケーのゴールキーパー用のマスクをかぶって出場。
それというのも、対メッツ戦で捕手と本塁上で衝突して頬骨を骨折。頬に針金を入れる手術を受け、まだ癒着していないのに戦列復帰した。仮面打者の登場だ。話題を提供し、ファンを楽しませるエンターテイナーの本領発揮だ。
しかし、球界の一大事件であった薬物問題と深く関わっていたことが、野球殿堂への選出を妨げることになった。2012年にパーキンソン病を発病、すでに機構による制裁も執行猶予期間が過ぎ、引退してから30年以上が経過していることと合わせ、存命中の殿堂への選出への機運が高まり、野球殿堂に選出された。2025年6月28日に74歳で、パーキンソン病との闘病の末に亡くなった。
さて、シュミットだが30代後半になっても、球界の王様としてパワーもスピードも衰えなかった。が、1988年に右肩回旋腱板を故障、手術をしたが完治せず、翌年5月涙ながらに引退を発表した。引退会見前日の時点で本塁打数、打点数、塁打数、敬遠の四球数、そして三振数において現役選手の中で最多となっていた。
しかし、引退したにも関わらず、MLBオールスターゲームに選出され、規定により出場はなかったが、初めて引退選手が選ばれることになった。キャリア18年間で本塁打王8回、打点王4回、MVP3回に輝き、メジャーでの地位を確固たるものにした。
引退後は悠々自適の生活を送り、マイナーの指導者や解説者を少しやる以外には釣りやゴルフ、ワイン造りなどの趣味に没頭していると聞く。


