孤高のミスター・オクトーバー 、レジー・ジャクソン
■ Reggie Ball 1
「ヤンキースでトラブルが起こると、すべてわたしが悪者にされてしまうのだ。だれもがわたしを、”黒い帽子をかぶった男”だと、指差していうんだよ」(「スーパー・スター」 佐野 稔著)
レジー・ジャクソンといえば、現役時代に通算563本塁打を放ったスラッガーだ。あの体がねじ切れそうなくらいに、バットを振りまわすスタイルは痛快だった。
打率はいつも3割を切っているのだが、敵にまわしてこれほど恐ろしい男はいない。チャンスに破天荒なことをかるがるとやってのけるのだ。77年のワールドシリーズ、対ドジャース第6戦ではなんと3打席連続本塁打を放ち、“ミスター・オクトーバー”の異名が定着した。
ワールドシリーズは、10月に開催されるため、そこで活躍する選手を『Mr.October』と呼んで、その栄光を讃えていた。その後も『ミスター・オクトーバー』と呼ばれた選手はたくさんいたが、レジーほどこの称号が似合った選手は他にいなかった。
大舞台での強さで知られ、アスレチックス時代には’72〜’74年のワールドシリーズ3連覇に大きく貢献。ヤンキースに移籍した後の1977年、’プレーオフでロイヤルズを3勝2敗で下し、前年に続きワールドシリーズ、対ドジャース戦に勝ち進んだ。
奇跡が起こったのは、ヤンキースが3勝2敗で大手をかけた第6戦。あろうことかすべて初球打ちの3打席連続本塁打の神がかり的な活躍で、ヤンキースに勝利をもたらしたのだ。ここまでこのシリーズで2本の本塁打を放っていた。おまけに、第5戦の最終打席でもホームランを打っていたので、ワールドシリーズでは史上空前の4打席連続ホームランでもあった。
2対3とリードされた4回裏、ドジャース先発のフートンと対戦。ヤンキースは第2戦でフートンに僅か1点に抑えられていた。その打席、レジーは初球を振りぬき、2ランホーマーは外野スタンドへと消えていった。この本塁打で、ヤンキースは5対3と勝ち越しに成功した。
ふたたび打席がまわってきたのは、5回。ランナーを1人置いて、フートンとの2度目の対戦、レジーの打球は、大歓声の外野スタンドにまたしても吸い込まれていった。この時点で、7対3とヤンキースの62年以来の優勝はほぼ決まっていた。3度目の打席は8回、投手はフートンからナックルボーラー、チャーリー・ハフに変わっていた。詰め掛けた観衆が、「もしや」との思いでワールドシリーズ史上初の3打席連続本塁打を期待していた。
今度も、初球だった。この瞬間、彼はワールドシリーズの歴史の新たな1ページを加えたのだった。これはMLBタイ記録。ベースを一周してダグアウトに帰ってきたとき、ふだんから不仲といわれるマーチン監督がでむかえ、首を抱き寄せたものだ。二人の反目は、一時氷解した。別名、レジー・シリーズともうたった。
また、翌78年のワールドシリーズでも魅せてくれた。まずは第1戦で特大のホームラン。第2戦では9回2アウト逆転のチャンスという場面で、ドジャースのボブ・ウェルチから9球粘るも三振ゲームセット。ウェルチを称えたうえで、
「借りは返す」
と宣言すると、第6戦でウェルチからホームランをかっ飛ばした。大舞台での活躍で、2年連続世界一に大きく貢献。アスレチックス、ヤンキース、エンジェルスと3球団でホームラン王になっている。これは、MLB史上唯一の快挙だ。
華もあるし、人気があった。ヤンキースには5年間の在籍だったが、なによりもヤンキースのイメージが強い男だ。それに強い自己顕示欲、歯に衣着せぬ物言い、傲慢でエゴイスト、長いメジャーリーグのなかでも一、二位を争うほどの個性派プレーヤー、レジー・ジャクソン。そんなイメージのレジーだが、ファンサービスは良かったといわれている。また大打者らしく審判への態度も素晴らしく、抗議をするときもまわりからはわからないようにしていたようだ。
「昔メジャー・リーグに上がった頃は、三振するとバットを折ったり、ヘルメットをたたきこわしたりした。自分の打撃のことばかり気にして、試合がどうなったのかてんで見てはいない。そんなときチームの先輩がさとしてくれた。毎回ホームランを打てるわけじゃない、三振するときもあるんだ。それをはっきり認め、そしてこの次は頑張ろうと心に決めればいいんだ」
と、この忠告に従って、いつもクールであろうとつとめた。自分の感情をコントロールできるようになると、打席でリラックスできた。それがかえって三振の数を減らしてくれたし、あらゆる面で技術が向上した。
1946年、ペンシルベニア州モンゴメリー郡チェルトナムタウンシップのウィンコート地区で生まれる。人口の70%が白人でヴィンテージ・ショップが立ち並ぶ街。父は、アメリカとプエルトリコのハーフ。クリーニングと仕立屋のオーナーであり、いわゆる職人さんだ。ニグロリーグの2塁手でもあった。 両親の離婚によって父の下で育つことになったが、ウィンコートはユダヤ人の村として当時膨脹していた人種主義的な雰囲気とは違っていた。
白人ばかりの学校に通ってたレジーは、オシャレで、運動神経抜群、賢くて人気者。アメリカンフットボールも並行していたが、そのディフェンスバックの代わりに、野球部の強打者として名前を得ることになった。しかし、1964年に高校卒業当時、野球はまだ技量が未熟だという理由で入団を断られ、またアメリカンフットボールの場合も、南部地域の大学は人種差別に対する恐れのため入団を放棄し、西部のアリゾナにあるアリゾナ州立大学に行った。 2年生の時に、ジャイアンツ、ドジャース、ツインズ、それにフィリーズから契約を熱望された。
1966年、ドラフト1位でカンザスシティ・アスレチックスから指名を受け入団、マイナーリーグからのスタート。オーナーは、独立独歩で保険業で一代を築いたでしゃばり屋チャールズ・O・フィンリィーだ。10年間で、監督を9人もとっかえ、現ディック・ウィリアムズに自分の考案した戦法を押しつけていた。どこへ行くにも、バカでかいラバのマスコットをつれまわし、すべてにおいて、チームを支配していなくては気がすまない男なのだ。
そんななか、レジーはマイナー生活を1年で終らせた後、1967年メジャー・デビュー。68年に29本塁打を放ち、その実力をいかなく示した。1969年、47本塁打を打ち、早くもチームの主砲として頭角を表した。オークランドにフランチャイズを移しても、かわらずスターとして君臨。
1970年代、アスレチックスは別名「マスターシュギャング」と呼ばれ、いかつい風貌に加え、殴り合いが日常茶飯事の大変なチームだった。口ひげを蓄えたら300ドルと、フィンリーが買収、元々はジャクソンが発端だ。この頃のアスレチックスのトレードマークであった『ヒゲ』は、メジャーでは御法度だった。
ただ、レジーはチームの仲間たちとは決して仲が良い方ではなかった。 自尊心の強い黒人強打者であり、あまりにも性格が自己中心的であって、チームメンバーと衝突したことはしょっちゅう。ロッカールームでチームメンバーたちと殴り合って、本人も負傷するといった具合。 相手チームについても、口汚く毒説を飛ばしたものだ。
ところが、この黒いサングラスに口ひげと悪役風の4番・ジャクソンが、無類の勝負強さを発揮したのだ。71年、32本塁打、80打点でチームを地区優勝に導く。優勝請負人・ディック・ウィリアムズに率いられ、西地区で101勝と圧勝したものの、経験豊かなオリオールズにプレイオフで3タテをくらい敗退。だが、翌年、72年からワールドシリーズで、レッズを破り、メッツをもやぶり、まずは2連覇を成し遂げた。おなじみのグリーンとイエローのユニフォームのキンポウゲは強かった。
72年のシリーズはシーズン後半でのこと、走塁中にハムストリングを傷つけ、ぎこちない松葉杖ををついて戦場外にあったものの、翌年のシリーズには最終戦で自身ワールドシリーズ初となる本塁打を放ち、2連覇に貢献している。シリーズを通して大活躍し、その年ワールドシリーズMVPに上がった。
73年、32本塁打、117打点で二冠王とMVPを獲得。ワールドシリーズでも打率.310、6打点と活躍し、怪我で出場出来なかった72年のワールド・シリーズの鬱憤を晴らしアスレチックスを2年連続の世界一に導いた。
74年には敬虔なパプティストである新監督アルビン・ダークの下、ドジャースと対戦、4勝1敗で3連覇をなし遂げた。3連覇達成のエリート軍団の仲間入りをした(1936年からジョー・マッカーシーの4連覇したヤンキース。1944年からこれまたジョー・マッカーシーの5連覇したヤンキース)。ポスト・シーズン合計10打点を叩きだし、3年連続ワールドシリーズ制覇に大きく貢献。このシリーズでの本塁打は第1戦の1本にとどまったが、5四球と相手投手にとって脅威であることを示していた。
この時、アスレチックスはキャプテン、サル・バンドーを中心に、レジー・ジャクソン、エース、キャットフィッシュ・ハンターとバイダ・ブルー、救援王ローリー・フィンガース、捕手ジーン・テナスのようなすご腕選手が多かった時代であり、かれらとともに活躍しながら1971年から1975年まで5年連続地区優勝を達成。
■ Reggie Ball 2
押しも押されぬチームの顔となったレジーは、この頃から、傲慢な性格が顔を出すようになる。
「俺こそ最高の野球選手。うぬぼれといわれても、嘘はつけないからな」
とうそぶくなど、歯に衣着せぬ言動でワンマンオーナーの・フィンリーと何度も衝突した。1975年アメリカンリーグ選手権で敗れた後、大きくなる財政負担を直感したフィンリーは主軸選手たちをトレードしはじめたのだ。FA制の導入が決まると、残留の見込みはまったくないと悟ったフィンリーは、レジーをオリオールズへ放出したのだった。
それをまた獲得したのが、三流球団に成り下がっていたヤンキースだった。幸運というべきか、ちょうどそのころからFA制度が導入され、札束で横っ面をひっぱたけば好きな選手を連れてくることができるようになった。チームのエースだったキャットフィッシュ・ハンターが、まさにこの制度の最初の適用者としてヤンキースに移籍。
「勝つためにはいくらでもカネを注ぎ込む」
と、オーナーであるスタインブレナーの号令のもと、GMのゲーブ・ポールと作戦を練りながら補強していった。血液総入れ替え大作戦といったところだ。次々とFAをとる一方、着実にトレードをも断行していった。
そして1977年、レジーはたった在籍1年のオリオールズからFAでヤンキースに移籍すると、これまた珍獣怪獣がうずまく「ブロンクス動物園」と揶揄(やゆ)された恐ろしい連中が集まる猛獣軍団。ダッグアウトは、つかみ合いと激しい口論の場とかしていた。5年契約、360万ドル。
「このチームをカクテルとすれば、俺はそれをかき混ぜるストローだ」
とほえた。球団にとってたまったものでなかった。
しかし、オーナー・スタインブレナーは、なんのそのその上をいっている。
「私の人生で最も重要なのは、勝つことである。呼吸の次に大切だ」
といってはばからない。監督はというと、これまた気性が激しい「ケンカ屋」ビリー・マーチンだ。スタインブレナーに反発、反抗のうえ、レジーとも事あるごとに対立。人一倍エゴが強く、プライドも高い3人は、当然のように反目し合った。1978年対ロイヤルズ戦5−5、10回裏無死一塁。マーチンは送りバントのサインをだした。投球はボール、取り消しのサインをだし、その「打て」のサインを無視し、2球目をバント。これが、キャッチャーへのファウルフライ。怒り狂ったマーチンは、レジーを「無期限の出場停止、その間の給料は払わない」処分を決定。
反省するどころか、
「走者を進めようとしただけ。俺はレギュラーじゃないらしいからね」
と、嫌みたっぷりに述べたジャクソンに、マーティンは5日間の出場停止と9000ドルの罰金を命じた。スタインブレナーも、
「このチームのボスはビリーだ」
と、これを支持した。当の本人であるレジーはというと、
「なんならオークランドの家にいってきたいのだが…」
と、のんびりしたものだ。中でも、マーティンとジャクソンがベンチで激しく口論を演じる場面が、全国中継のカメラで映し出された事件は、今も多くのファンの記憶に焼き付いている。
「本塁打か、三振か」と、軽視する向きもある。しかし、レジーといえば大舞台での印象がクローズアップされがちだが、コンスタントに成績を残した打者だともいえる。スコアリング・ポジションにいるランナーの33%をホームに返している。73、75、80、82年と計4回の本塁打王に輝いてもいる。しかも、試合後半のプレッシャーのかかる場面でのホームランを数多く打っているのだ。
「きさまの時代は終ったよ」
と、スタインブレナーはいい放ち、ジャクソンは82年、ふたたびFAとなってエンジェルスへ移籍。39本塁打を放った。82年も、チームを地区優勝に導いた、まさしく優勝請負人’。86年にはワールドシリーズのチャンスがあったが、レッドソックスとのリーグ優勝決定戦に敗れ、惜しくも最後のチャンスを逃した。86年のオフ、古巣アスレチックスに戻り、そこで21年間の選手生活に幕を閉じた。
のちに、スタインブレナーは、
「ジャクソンを引き留めなかったことが、私の一番の失敗だった」
と悔やんだ。レジーはマスコミの集中砲火も収まり、DHでみちがえるような活躍をみせた。そんなころ、古巣アスレチックスに身売り話がでた。すると、
「引退したら、わたしが買収する」
と語ったものだから、
「さすがジャクソンだ」
と、全米をうならせたものだ。車好きがこうじて中古車事業をはじめ、中古車ディーラーで大成功。お金はあった。
93年には、ヤンキースのキャップで殿堂入り。そして、同年背番号「44」番、2004年にはアスレチックス時代の背番号『9』が、それぞれ球団の永久欠番に指定された。ヤンキースの永久欠番の中で、黒人選手はこのレジー・ジャクソンのみである。
同年スタインブレナーと和解した後、特別アシスタントとしてヤンキースに戻り、ヤンキースの少数人種問題に対する諮問役を引き受け、若い黒人、ヒスパニック系列選手たちの相談と諮問をはかる役割を遂行していた。2021年にその座を退くまで、
「引退することにした。潮時だと思う」
長い間チームの重鎮的存在であった。
現在、ヤンキー・スタジアムに飾られている永久欠番の列において、マーティンの「1」番とジャクソンの「44」番は隣り合わせだ。1989年、マーチンは乗っていたトラックがアイスバーンで横転する事故により死去。10年にはスタインブレナーも心臓発作のため鬼籍に入り、健在なのはジャクソンだけとなった。