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“The Grey Eagle”、トリス・スピーカー

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“The Grey Eagle”、トリス・スピーカー

史上最高級の中堅手と呼ばれたスピーカー(Tris Speaker)。同時代に活躍したタイ・カッブの影に隠れながらも、通算打率.345を記録し、卓越した外野守備として1910年代の野球界を代表する選手の一人となる。ボストン・レッドソックス(1907年~1915年)、クリーブランド・インディアンス(1916年~1926年)、ワシントン・セネタース(1927年)、フィラデルフィア・アスレチックス(1928年)に所属。通算22シーズン、3,515安打(歴代5位)、1,529打点。1937年に、アメリカ野球殿堂入り。


若い頃は、とにかく足が速かった。盗塁も多く、外野守備でも守備範囲が抜群に広かった。足に自信があったから、守備位置は浅かった。補殺や、併殺が多かった。毎年補殺は20以上。外野手としては84試合で打率.268、33盗塁というそこそこの成績を記録。1907年には、打率.314を記録し二塁打と三塁打でリーグトップになるほどの選手に成長した。

抜群の打球の読みに裏打ちされた極端な前進守備をとっており、「センターゴロ」や「一人ダブルプレー」(ライナーを捕球して、そのまま二塁に駆け込む)を何度もおこなったという。外野手補殺数449は歴代1位の記録であり、1909年と1914年には、中堅手でありながら12もの併殺を取っている。

スピーカーは中堅手の守備位置を2塁手のすぐ後ろ、第5の内野手で相手の安打を止め、後ろに行くボールは途方もない運動能力にてカバーした。それで、イーグルのように飛んで捕まえると、ニックネームが「グレー・イーグル(“The Grey Eagle”)」だった。20代の半ばから白髪が目立ちはじめ、「灰色のイーグル」も、この白髪からもとられたようだ。ちなみに内野をようやくこえるヒットをテキサス・リーガーというのは、スピーカーがテキサス州の出身だったからだ。

通算792二塁打は史上1位であり、8シーズンにわたって二塁打数1位を記録する。また1912年6月9日はサイクル安打を達成している。1919年から1926年には監督も兼任。1920年には、選手兼監督としてインディアンスの初のワールドシリーズ制覇を実現する。

1988年にテキサス州の田舎町ハバードに生まれ、9歳で父親と死別。生活費を稼ぐために、子供ながら牧場で働きはじめる。しかしながら10歳の時に、そこで馬に乗っていた際に転落して右腕を骨折。元々は右利きだったが、この事故により左利きに転向。

高校に進学すると、野球部のエース&キャプテンとして活躍。その後、銀行業と簿記を学ぶために大学に進学するが、電話交換手&カウボーイとしてアルバイトをしながら、地元セミプロリーグの選手として野球を続けた。1906年、そのセミプロチームで投手としてプレー。目指すは、同じ左のアスレティックスのルーブ・ワッデル、怪腕投手だ。が、デビューから6連敗を喫し、外野手に転向することを余儀なくされる。

その活躍を耳にしたピッツバーグ・パイレーツが興味を示したが、スピーカーがタバコを吸うことを知り、スルー。セントルイス・ブラウンズ(現ボルティモア・オリオールズ)と契約直前まで行くが、これも破断。最終的に、ボストン・レッドソックスがこの球史に残る大スターとの契約に成功。

1907年9月のシーズン終了直前にデビューするも、7試合で19打数3安打と微妙な成績。シーズンオフに、レッドソックスがスピーカーに契約更改をオファーすることはなかった。そこで、スピーカーは地元テキサスで春季キャンプをおこなっていたニューヨーク・ジャイアンツを2度訪れるが、ジョン・マグローには、
「外野に空きはない」
といわれ、トライアウトすらできなかった。

その後、レッドソックスの春季キャンプ(アーカンソー州リトルロックで開催)に参加。レッドソックスは練習施設の利用料の一部として、スピーカーをその地元チームのリトルロック・トラベラーズ(マイナーリーグのサザン・リーグ)に売却してしまう。売却といっても、スピーカーが成長した場合、レッドソックスが500ドルで買い戻す権利も含まれていた。

トラベラーズでは打率.350を残し首位打者、盗塁も28。レッドソックスの選手として、1908年シーズンの終盤にMLB復帰を果たすが、31試合で打率.220とまたもやイマイチな成績。しかし、投手の夢破れたスピーカーに、運命のいたずらかあの少年時代のあこがれだったスター選手ルーブ・ワッデルと対戦する機会が訪れたのだ。

ピンチ・ヒッターとして打席に立ったスピーカーは初球を打って、二塁打を放った。このため、1点を上げ2−2の同点とした。そして、延長14回の終わりふたたび打席に立ったスピーカーは、ワッデルから安打を放ち、勝利を奪った。わずか20歳で、強豪チームレッドソックスの押しも押されぬ中堅手となった。

この時期、同じレッドソックスに所属していたあの大エース、サイ・ヤングから直々に外野ノックを受けるなど、特訓を受け外野守備を磨く。これについてスピーカーは、
「サイは私がレッドソックスに入ってから、毎日のように外野ノックを行ってくれた。彼はたったワンステップで私が全力疾走しなければとれないようなフライを打った。これよって私は打球がどの方向に飛ぶか分かるようになった」
と語っている。終生サイ・ヤングを恩師と慕っていた。また、他のチームメイトからも投手の配球やバッティングを積極的に学んでいる。

­1909年にはとうとう才能が開花して、打率.309、外野守備では捕殺、刺殺、併殺のすべてで外野手リーグトップとなった。1910年からはダフィー・ルイス(レフト)、ハリー・フーパー(ライト)とともに「100万ドルの外野陣」を形成。この外野陣は、今でも野球史上最も守備が優れた外野陣だといわれている。

さらに、1912年には本塁打、二塁打、出塁率でリーグ首位となり、ともにMLB野手全体トップの数字。1911年に制定されたMVPの第2回受賞者となった。また、チームはリーグ優勝を果たし、対ニューヨーク・ジャイアンツのWSでも活躍を見せ、初のWS優勝を経験している。

ともに100勝以上を上げたチームの対戦となった。このシリーズは1回のタイ・ブレークをいれて合計8回のゲームをやっている。それがすべてクロス・ゲームなのだ。3勝3敗1分けののち、最後の決戦がフェンウエー・パークでおこなわれた。息詰まる投手戦となった。ジャイアンツは至宝マシューソン、レッドソックスはベディエントを抜擢。6回まで、レッドソックスはスピーカーの二塁打1本だけ、1点を追っていた。

7回に代打・ヘンリックソンのタイムリーで、やっとタイ・スコアに持ち込んだ。この回からレッドソックスはエース・ウッドを送り込み、1ー1のまま延長10回まで壮絶な投手戦が続いた。しかし、10回表ジャイアンツはマークルの適時打で1点を勝ち越し、勝利は決まったかに思えた。

ところが、ジャイアンツの喜びも束の間、思いがけなく暗転することになる。まずは凡飛球を名手・スノッドグラスがポロリと落球。3万ドルのファンブルと呼ばれている。ジャイアンツの選手配分金が3万ドル減ったことにちなむ。一死一、二塁のチャアンスを掴み、窮地に陥ったマシューソンは、ここでスピーカーを迎えることになる。

マシューソンは得意のフェード・アウェーを投げ込み、スピーカーはファウル・フライを打ち上げた。ホームと一塁のあいだの微妙な位置であって、捕手・マイヤースには取れそうにないボールだった。そこに、マシューソンが、「マイヤース」と、大声で叫んだのだ。やはり間に合いそうもないとみて、こんどは一塁のマークルが代わって追いかけたが、取ることができなかった。優勝を逃したマークルの大きなボーンヘッドだった。マークルの責任とみなされた。前例があったのだ。1908年、新人マークルはシカゴ・カブスとの一戦で一塁ランナーで出ていて、サヨナラヒットがでたものの、二塁をふまなかったことで、リーグ優勝を逃した経緯があったのだ。

九死に一生を得たスピーカーは、ライト前ヒットでランナー一人を迎え入れ、ふたたびタイ・スコアにもちこんだ。不運のマシューソンは、満塁策に出た。内野ゴロで封殺を狙ったが、好機に強いガードナーは大きなフライを外野に飛ばした。こうして、稀に見る大接戦はレッドソックスの優勝となって終わった。まだ若きスピーカーが大投手マシューソンから放ったささやかなヒット一本が、一生の思い出のヒットになったと、後年、スピーカーは語ったようだ。

ベーブ・ルースとチームメイトになったのが、1914年。ルースは投手だけでなく打者としても活躍したが、スピーカーは“二刀流”には否定的だったという。一方、ルースは、トリス・スピーカーの守備能力を非常に高く評価していた。
「これまで見た中で、最高の守備的アウトフィールダー」
と評したことがある。しかし1920年にかつての同僚、ベーブ・ルースが本塁打革命を起こしてからは影が薄くなった感は否めない。

この時期、スピーカーは4年連続最多二塁打を記録。目立たないがこれもすごい記録だ。1923年にはベーブ・ルースと打点王を分け合う。ルースは45二塁打41本塁打、スピーカーは59二塁打17本塁打。まさに面目躍如。当時のルースは80~90個も三振していたが、スピーカーは20個以下。今から思えば驚異的な数字だ。ミートがずば抜けて巧みだったのだろう。

その1914年には、資金豊富なフェデラル・リーグの発足により、激しい争奪戦いもかかわらず、レッドソックス側の引き留め工作がみのり、スピーカーはMLB年俸最高選手(年俸1万5000ドル)となった。このころまでには、ベースボールが確実に営利を得られる絶好の有利事業となっていた。そこに第三のリーグが出現した。ブルックリンのパン製造業の大成金ウワードが、石油業界の雄シンクレアを誘って、既成二大リーグに対抗しようとした。

しかし、創設者の一人ウワードが突如逝去。これが崩壊の発端となり、既成の両リーグに降参。早晩没落の運命にあったとはいえ、大資本家のスポーツ進出の発火点となった。



さて、1915年には2度目のWS優勝を経験も、フェデラル・リーグの消滅によりオーナーのジョセフ・ランニンがスピーカーの年俸カットを画策。初めランニンは9000ドルをオファーするが当然スピーカーは拒否し、1万2000ドルを要求するが合意には至らず、1916年4月にサッド・サム・ジョーン、フレッド・トーマスに加えて5万ドルとの交換で、クリーブランド・インディアンズに放出される。

移籍後1年目には、タイ・カッブを抑えてキャリア唯一となる首位打者(.386)、1919年のシーズン途中には、チーム内外の人望の厚さにより選手兼任監督に推され、就任。監督としてフルシーズン1年目となった1920年には、当時ではまだ珍しかったプラトーン起用も積極的におこなった。ついには、リーグ加盟以来最初のペナントを握り、ブルックリン・ドジャースとのワールドシリーズへ。その最終戦である第7戦で、一人で3打点を殴り、結局3ー0で勝利し、初のWS制覇に導いた。

また、この年にはすでに32歳だったが、成績も復活し、打率はタイ・カッブに次ぐ数字。1920年~1923年に3年連続で二塁打リーグ1位となり、1923年には35歳で初の打点王のタイトルを獲得。1925年には37歳ながら出塁率でリーグトップとなっている。最終的にインディアンズでは11シーズンでプレー。インディアンズにとって超大儲けのトレードとなった。ちなみに、レッドソックスはスピーカー放出の4年後にもベーブ・ルースを放出し、1920年代にはAL最弱チームにまで落ちぶれてしまった。

1926年シーズン後、ダッチ・レナードに、「1919年の試合で八百長した」と、タイ・カッブと共に告発される。当時のMLBコミッショナー:マウンテン・ランディスは二人を無罪としたが、AL会長のバン・ジョンソンは二人の退団を要求しスピーカーはワシントン・セネターズに移籍。そして、1928年にはアスレチックスに移籍し、長年のライバルだったタイ・カッブとチームメイトに。しかし、すでに40歳になっていたため全盛期の力はなく控えとしてプレー。このシーズン限りで、カッブと同時に引退することとなった。

MLBからは引退したが、1929年~1930年にはマイナーリーグのインターナショナル・リーグで選手兼任監督としてプレー。1931年以降はシカゴの解説者や、アメリカン・アソシエーション(マイナーリーグ)のカンザスシティ・ブルーズの監督兼共同オーナーを務め、1947年にはラリー・ドビーのセンターコンバートを手助けするために臨時コーチとしてインディアンズに復帰もした。

1936年に最初の名誉の殿堂入り投票では、タイ・カップ、ベーブ・ルースなど最初の5人に押されたが、二度目の1937年に82.09%の投票を受け、恩師サイ・ヤングとともに殿堂入り。

1958年にテキサス州レイク・ホイットニーにて、心臓の冠動脈閉塞により70歳で死去。