お人好しで野球に勝てるか、レオ・ドローチャー
Leo Durocher
打てないが、守りの優れた遊撃手だった。その一方で、ヤンキース在籍時ベーブ・ルースを毛嫌いし、犬猿の仲だった。引退後ドジャースで一塁コーチになっていたその憎きルースを解雇したり、ハリウッドの新進女優と駆け落ちしたりと、話題にはことかかないヤバすぎる監督であった。
だがしかし、つねに選手たちに激しい声援を送り、チームを鼓舞し続けた。かれの熱血漢ぶりは、選手たちの士気を高め、チームを勝利に導いた。2008勝1709敗。ドジャースで738勝、ジャイアンツで637勝、カブスで535勝と3つの異なるチームで500勝以上を挙げた最初の監督。持ち前の気の強さもあって、「レオ・ザ・リップ」のニックネームの通り、審判の判定に口うるさくしつこい抗議をする監督としても有名であって、通算退場回数は歴代2位の124回を数える。
それにもかかわらず、フランス系カナダ人の両親のもと、マサチューセッツ州ウェストスプリングフィールドに生まれた。その街は当時、貧しい黒人が数多く暮らしていて、世の中には黒人を差別的に見る風潮があったが、かれにはそんな素振りもなかった。後年、ジャッキー・ロビンソンのドジャース入団にさいしても、なんの偏見も持っていなかった。
1925年、ヤンキースと契約、19歳でメジャーデビュー。2年間のマイナー暮らしの後、1928年から遊撃手として定着。そんな新進気鋭の遊撃手だったころ、あのタイ・カップにも噛みついたという逸話もある。
晩年アスレチックスに移っていたカップが右中間を破って、二塁から三塁に向かっていたが、ドローチャーが故意に腰をぶつけ、カップは転倒。その間に返球があって、タッチアウト。
「いいか、小僧。今度こんなことをしたら、てめえの脚をスパイクで切り落としてやるぞ」
すると、ドローチャーが、
「よしな爺さん、もう家に帰りな。ぼくらみたいに若い奴らとやっていると、大ケガをするよ。それに、もしスパイクで引っ掛けようとしたら、口にボールをつっこんでやる」
といいはなったもんだ。しかしながら、これはあくまで逸話であって、事実ではないようだ。かれの自著によると、
「なんてたって、相手はあのタイ・カップさんなんだもの…」
ということらしいが…さもありなん、ドローチャーの小生意気さをよくあらわしているエピソードだ。
そうはいっても、強打”マーダース・ロウ”・ヤンキースの中では、あまりにも非力。チーム打率が.295。ドローチャ―だけ、打率.246と極端に低い成績。ルースはドローチャ―のことを、”ちびな選手の低い打率”とからかい、「オール・アメリカン・アウト」(アメリカの’のけ者’代表チームの一員)とさえいい放って笑いものにした。
そのくせ、服装には、うんとお金をかけていたというが、面白い話がある。この年のキャンプ時のある晩、さる女性とのデートのために、白のディナー・ジャケットを身を包み、おまけにステッキまでついていた。見ると、ホテル脇道の公園の長椅子に、監督であるハギンスがのんびりと座っていた。
「よう、兄さん、格好いいね」
と、声をかけられ、ドローチャーは、ついしどろもどろになり、
「あの〜、これから食事にいくところなので..,」
と、答えるのが精一杯。すると、ハギンス監督は、
「そうかい、ステッキもいいが、もう少しバットの使い方も覚えろよ」
と、皮肉られたようだ。
また、当時ヤンキースの遠征先のホテルは2人1部屋体制だったが、ルースと相部屋になりたがる選手は誰もいなかった。ルースの夜遊び、若い女性の連れ込み、ひどく臭いげっぷやおならを部屋中いたるところで連発するなどだったが、なぜかドローチャ―だけはまったく気にする様子がなく、ルース自身もそれを不思議に思っていた。
やがて、ルースがもっと不思議になる出来事が起こった。ファンからの金時計などがいつの間にかなくなっていたり、財布のドル札が以前より大きく減っているなどの事態が頻発したからだ。
そこでルースは自分の財布のドル札にこっそりと小さな印をつけ、わざとドローチャ―に見えるようにして部屋を出た。しばらくたったある夜、なにげに部屋に戻ったルースはドローチャ―の財布を見せるよう要求。そこにはルースの印付きドル札が大量に入っていた。これについては、若気の至りではすまなかった。
ドローチャ―が犯人とわかり、ルースは大激怒、殴るは蹴るはの暴行で復讐。ホテル中の客が深夜にもかかわらず、目を覚ますほどすさまじいものだったようだ。結局、この事件が原因で、1929年シーズン終了後、レッズに放出された。その後、カージナルス、そしてドジャースと転々と球団を渡り歩いた。
それでも、ドローチャーはひるまない。そのレッズ在籍時、ドローチャーの隠し球が絡んだ特筆すべきプレーがあった。カージナルス戦で、『隠し球を使って三重殺を完成した』プレーだ。この試合の6回表、無死一塁三塁でカージナルスの打者がレフトにフライを打ち上げ、これを左翼手が捕球、タッチアップした三塁走者は本塁で封殺される。この間に一塁走者は二塁を陥れ、捕手から遊撃手だったドローチャーに送球されるも走者はセーフ。ドローチャーはこの後捕球したボールを投手に返さず、二塁手のにこっそりと手渡し、気づかなかった二塁走者が離塁したところを二塁手がタッチし、まんまとアウトにした。面目躍如ってところだ。
1938年、ついてる男・ドローチャ―は33歳という若さで、万年Bクラスの弱小チーム、ブルックリン・ドジャースの選手兼監督に就任。GM・マクフェイルのチームづくりが、成果を挙げつつあった。ブルックリンでの試合のメディア中継放送を積極的に進めたり、一方では客寄せパンダよろしく引退していたルースを一塁コーチに引っ張り込んだりした。1939年8月26日のドジャース対レッズ戦が、MLB史上初のテレビ中継された試合となった。
ドローチャ―は体の小ささを補うため、猛烈な競争心、試合にかける情熱、またその切れ味鋭い頭脳で過去のプレー状況を分析、その正確な記憶力などを武器に人並み以上に努力していたのだ。それにまた、’リップ’とニックネームがつくほどのおしゃべりだったし、押しの強さ、巧みなやりこめ術を磨いていった。
そんな監督1年目の1939年はシーズン84勝でリーグ3位、1940年はシーズン88勝でリーグ2位。1941年、シーズン100勝でドジャース史上21年ぶりとなるリーグ優勝。ワールドシリーズでは、同じニューヨークに本拠を構えるディマジオを要するヤンキースと対戦したが、これには、1勝4敗と敗北。35歳だった。
1947年のことだ。おどろいたことに、シーズン開幕前にドローチャーが、突然姿を消してしまうハプニングがあった。ハッピー・チャンドラーコミッショナーがその行方を探しまわった結果、なんとあきれたことに新進女優のラレイン・デイと手に手を取って駆け落ちしていたことが判明。ほかにもギャンブラーとのいかがわしい関わりなども噂され、ドローチャーに1年間の出場停止処分禁止を決めた。
その間、ショットン代理監督の下で、皮肉にもドジャースはリーグ優勝してしまった。その年の出場停止処分を受ける直前、クラブハウスで黒人選手をチームメイトに受け入れることに、いまだ拒否感を示す選手達を前に叱咤した一言はいまだに有名。
「肌の色が黒でも茶色でも構わない。オレはこのチームの監督だ。優秀な選手であれば使う。異論があるなら、いますぐチームを出ていってくれ」
ジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューした年は、出場停止期間中だったのだ。
1948年途中、ドローチャ―は監督に復帰したものの、やはりというか独断的なエゴが嫌われ、ライバル・チームのジャイアンツに放出された。メル・オット監督と入れ替わりで、監督に就任。あれよという間に、チームは復活。それまで常勝球団だったジャイアンツは、オット監督以後、6年連続して下位に沈んでいた。性格もよくメディアにも好かれていたかれだったが、これについてコメントを求められていたドローチャ―の答えが、ふるっている。
「(オットのような)お人よしで野球に勝てるか!」
というもの。
「性格のいい監督は、そこいらじゅうにいる。そして、かれらのチームは最後は7位(8球団中)と悲惨な成績で終わる」
ということらしい。
じつのところ、運もよかった。ジャイアンツでは、ウィリー・メイズなどの新戦力が台頭していたのだ。1951年にはさてそこで、1951年のこと、ドジャースが開幕から独走。8月11日時点でジャイアンツは13.5ゲーム差をつけられ優勝は絶望的と見られていたが、そこからにジャイアンツは16連勝するなど猛追撃。シーズン終了時点で両チームは96勝58敗のタイとなり、3ゲーム制のプレーオフになった。
1勝1敗で迎えた最終第3戦。9回裏ジャイアンツ最後の攻撃で4対2でドジャースがリード。1アウトをとられたものの、ジャイアンツの2人の打者がヒット。ここでジャイアンツの打者はボビー・トムソン。1ストライクの次の球、ボビー・トムソンはバットを強振するとボールはレフトスタンドに一直線に入り、5対3で劇的なサヨナラ・ホームラン。
MLBでプレーオフがおこなわれたのも初めてなら、サヨナラ・ホームランで優勝が決まったのも初めてということで、当時全米中をにぎわす大ニュースとなった。「世界中に聞こえた一発」だ。熾烈な優勝争いの末、ついにリーグ優勝。しかし、残念ながらワールドシリーズでは、新人・マントル要するヤンキースに苦杯をなめた。
さて、そのメイズ、1951年途中メジャー入りしたのはいいが、メイズは初打席以降、12打数連続無安打だった。が、おどろいたことに、13打数目で大投手ウォーレン・スパーンからメジャー初安打・初本塁打を記録したのいいが、その後、またずーっと打てなかった。
まったくメジャーの投手に歯が立たなかったメイズは、
「オレには、メジャーのピッチャーは打てない。マイナーに落としてくれ」
と、ドローチャーに泣きを入れた。いまにも泣き出しそうなそんなメイズに、
「ウィリー、よく聞くんだ。キミは打てなかったが、チームは勝った。きっと明日もそうなるだろうよ。だから明日も明後日も、その次の日もジャイアンツのセンターはキミが守るんだ。どうだ、わかったかね」
と、諭すようにいった。
実際不思議なことだが、メイズが打てなかった試合もずっと勝っていたのだ、ジャイアンツは無論、こんなものはただの偶然だが、選手もコーチも、そしてファンも気づいていたのだ。ドローチャー自身は、メイズがいいバッターだということは見抜いていた。だからこそ、少々打てなくても、慣れるまで使っていこうとしていたわけだ。1954年には第1戦でメイズのミラクル・キャッチ、「ザ・キャッチ」が出て、4連勝。ドローチャーは、監督として初のワールドシリーズ制覇した。
1955年にジャイアンツの監督を退任、1961年から4年間、ドジャースのアシスタントコーチを務めたのち、1966年にシカゴ・カブスの監督へ。当時のカブスは20年近く低迷しており、1960年代前半にはあまり口出しをしないリグレー・オーナーが、
「1人の監督があれこれ指示を出すからカブスは勝てない。今後は複数人のヘッド・コーチに試合毎に交代制でチームの指揮を取らせる」
というメチャな命令を発して、シーズン毎に4~6人のコーチが、輪番で試合ごとに監督業を変えるという戦術に出たものだ。が、指揮に一貫した方針がなくては、チームは勝てないのは当たり前。カブスは低迷したままだった。
ドロチャ―は監督就任にあたり、
「私は、ヘッド・コーチの一員として働くつもりはまったくない。このチームのただ1人の監督として采配を指揮する」
と、宣言。すでに57歳のベテラン監督。しかし、その熱血漢ぶりは健在で、カブスをすぐに強豪チームに仕立て上げた。ドローチャーは、試合中、ベンチから飛び出して、選手たちを鼓舞した。1960年代後半になると、スター選手も台頭しはじめ、チームも上位に進出する機会が多くなる。
1968年には久しぶりの3位(10球団中)に上昇。翌1969年には地区制が導入され、カブスはナショナルリーグ東地区に移動。8月まで地区首位を独走したが、ミラクル・メッツのシーズン終盤の急激な追い上げの一方で、カブスは9月に9勝18敗と不振に陥り、優勝を逃した。以降、チームも優勝に絡むことはなくなった。ドローチャーも、1972年途中でカブスの監督を退任した。
ドローチャーには、選手と衝突することもあるなど、監督としての問題点もあった。しかし、選手の能力を引き出し、勝利への執念を燃やし、チームを団結させるという、監督に求められる重要な要素をすべて兼ね備えていた。それが証拠に、かれが率いたチームは、つねに優勝争いに加わる強豪チームとして活躍したものだ。
1991年10月7日、カリフォルニア州パームスプリングスで死去。1994年に、監督としてアメリカ野球殿堂入り。