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史上最高のキャッチャーの1人、ミッキー・カクレーン

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ミッキー・カクレーン(Mickey Cochrane)

強肩強打の捕手。史上最高のキャッチャーの1人。フィラデルフィア・アスレチックスと、デトロイト・タイガースの捕手としてプレーした。

優れた打撃力と強肩に加え、リードやキャッチングなど、捕手としてあらゆる面で優れた選手。また、冷静沈着なプレースタイルから、”Black Mike”という愛称で呼ばれていた。

当時のラバーも張られていないフェンスに激突しながらもファウルフライを捕球するという恐れを知らないプレーで、相手チームをもうならせた。ファイトあふれるプレーから、「ダイナマイト・キャッチャー」とも呼ばれていた。通算打率.320は、MLB捕手としては最高記録。

頭部死球の影響でキャリアはわずか13年だったが、打率3割以上、出塁率4割以上、64盗塁と、捕手の概念を破った。MVP2回。後に、殿堂入り。1926年のクリーブランド・インディアンス戦で、カクレーンは1試合で3本塁打を放った。これは、捕手としてはアメリカ野球史上初、メジャーリーグ史上でも13人目の快挙。


マサチューセッツ州ブリッジウォーター、恵まれた家庭で生まれた。父ジョン・カクレーンは医師、北アイルランドのタイロン州オマーから移住。母親のサディ・キャンベルは教師、カナダのプリンスエドワード島から、その家族はスコットランドから移住していた。

幼い頃から野球に興味を持ち、地元の少年野球チームで活躍。高校卒業後はボストン大学に進学し、野球とアメリカンフットボールで活躍した。カクレーンは自分自身を野球選手よりもサッカー選手だと思っていたが、プロサッカーは当時メジャーリーグほど確立されていなかった。そのため、1924年にパシフィックコーストリーグのポートランド・ビーバーズと契約。そこで、オークランド・アスレチックスにスカウトされる。移籍金は、10万ドル。

マイナーリーグでわずか1シーズンを過ごした後、メジャーに昇格。1925年22歳でフィラデルフィア・アスレチックスにデビュー。その1年目から正捕手を務めあげ、打つ方でも.331と高い打率をマークした。アスレチックス在籍時は主に3番を打っていたが、打率や出塁率の高さから、捕手に関わらずときおり1番を打つこともあった。

闘争心にあふれたプレーで、チームを鼓舞するリーダーでもあった。当時アスレチックスにはジミー・フォックスやアル・シモンズといった強打者がいたため、監督のコニー・マックは、カクレーンに対してかれらへの「つなぎ役」としての出塁を主に求めていたという。以後カクレーンは持ち前の強い闘争心でチームを牽引し、1928年はリーグ制覇を逃したものの、その年のMVPを獲得。翌1929年からはアスレチックスをリーグ3連覇に導いた。

アスレチックスはワールド・シリーズで2連覇した。1929年、コニー・マックはワールド・シリーズ初戦にバクチをしかけ、それに勝った。仕掛け人は、35歳のハワード・アームキー。窓際投手を先発に指名したのだ。相手・カブスはもちろん、自軍アスレチックスの連中も驚いた。大観衆も、ただ唖然とするばかり。こんなポンコツ投手をなぜ投げさせるのか、みんながみんな不思議がった。

1回、2回とアームキーは快調。6回、もう限界かと思いきや、なんと中軸打者を連続三振に討ち取った。ジミー・フォックスのホームランなどで3−0で、とうとう9回のウラまできた。失策から、1点を失い代打攻勢にあい、絶体絶命の危機に陥った。二死ながら、塁上には同点のランナーがいる。かれはカクレーンを呼んで、
「マイク、戻ったら速球のサインを出してくれ。ぼくは首をふるけど、構わないんだ。ただ、あいつの裏をかいてやりたいんだ。ボールを投げたら、大声で”打て”と叫んでくれ」
カクレーンは、言われたとおりにした。アームキーは球歴最後の渾身の力をふりしぼって、打者に空を切らし三振に討ち取った。ワールド・シリーズでの新記録、13奪三振を達成したのだ。この勝利はかれのもっとも重要な勝利であって、最後の勝利でもあった。

「なあ、ハワード。きみにはもうアスレチックスの首位を支えていく力はない」
優勝を決めにいく最後の西部遠征に参加しなくていいと、マックに最後通告を受けたのだ。しばし押し黙ったあと、アームキーは低い声で、
「それで結構です。でも、ワールド・シリーズで投げたい気持ちをずっと持っていました。もう昔と違いますが、私の腕は、もう1試合ぐらいよい試合ができるように思っております。それを証明するチャンスがほしいんです」

マックは考え込んでしまい、やがておもむろに口を開いた。
「分かった。では、こうしよう。見たところ、カブスが優勝すると思う。カブスを追跡調査してくれ。攻守に渡って長所短所のすべてを探ってくれ」
こうして、隠密作戦がはじまった。シカゴ・カブスの試合を追っかけ、投手のクセ、打者のクセ、監督の作戦の傾向を克明にメモし続けたのである。

ワールドシリーズ、アスレチックスは3連覇はならず。1931年、107勝をあげ、13ゲーム差でアメリカン・リーグ優勝旗を手にしていた。相手は、セントルイス・カージナルス。アスレチックスからみると、手強いチームじゃなかった。しかし、ひとりの若者が、ほとんど独力で強大なアスレチックスを叩きつぶしたのだ。

新人中堅手ペッパー・マーティンだ。奇跡的な打棒はもちろんのこと、思いのまま塁上を走りまわったのだ。その活躍をめぐって、カクレーンは手ひどく非難された。が、かれは釈明もせず、その非難を一身に受け止めた。著書・「野球の殿堂キャッチャーの生涯」の中で、著者チャーリー・ベビスは、フィラデルフィアのピッチングスタッフがランナーを牽制する際の不注意を要因として挙げている。



1934年にアスレチックスは財政的な理由から、カクレーンをデトロイト・タイガースへ放出。タイガースで選手兼任監督となった。就任1年目で、タイガースをリーグ優勝に導いたのだ。この年、カクレーンの強烈な活躍に加え、チャーリー・ゲーリンジャー、ハンク・グリーンバーグ、グース・ゴスリンら”Gメン”(3人とも苗字が”G”からはじまる)が好成績を叩き出し、雪辱のヤンキースを破り、数十年ぶりにリーグ優勝を果たした。打率.320をマークし、2度目のMVPを受賞。

しかし、ワールドシリーズの相手は、”ガスハウス・ギャング”のカージナルスだ。3勝3敗での第7戦。メドウィックのラフ・プレーによって、タイガースの本拠地球場は怒号と、ものが投げつけられ、何度も試合が中断し大いに荒れた。しかし、その影響もカージナルスには大したことはなく、11−0と大勝。タイガースは敗れ去った。

翌1935年には、カクレーン監督(打率.319)のもとリーグ2連覇を成し遂げ、ついにワールドシリーズ優勝に導く。相手は、シカゴ・カブスだ。2試合目、主砲・グリーンバーグが手首を痛め、残りの試合は欠場。それでも投手陣の踏ん張んばりもあって、4勝2敗で栄光をつかんだ。

優勝パレードは多くのファンによる拍手に包まれ、道行く人はチームのロゴが入ったグッズを身に着け、本拠地のコメリカ・パークはデトロイト・タイガース一色に染まった。チーム史上、最も盛大にパレードや祝勝会がおこなわれたのがこの年だ。

1937年、対ニューヨーク・ヤンキース戦の第3打席、右コメカミにデッドボールを受け頭蓋骨を骨折、10日間意識不明となる重傷だった。同年、現役引退。翌1938年は監督業に専念したが、頭痛の後遺症に悩まされ続け8月に辞任。

その後、海軍で少佐を務める。除隊後はコーチ、GMをへてタイガースの球団副社長となった。退任後は、ワイオミング州の牧場主として余生を送った。1947年、野球殿堂入り。1962年、ガンのため逝去。タイガースの本拠地タイガー・スタジアムの3塁側スタンドに接した道路は、かれにちなみ「カクレーン・アベニュー」と名づけられている。

また、全盛期の1931年、とあるカクレーンのファンが生まれた息子にかれの名である「ミッキー」と名づけた。後に、スイッチヒッターの元祖となるミッキー・マントルである。有名な話である。