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「キング・カール」、カール・ハッベル!

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「キング・カール」、カール・ハッベル!

Carl King Hubbell

かれはよく「キング・カール」と呼ばれたが、そのきっかけになったのは1934年のオールスター・ゲームでの奪三振ショーだった。ハッベル、31歳、ジャイアンツ入りして7年目。ちょうど脂が乗り切った頃だった。

前年の1933年のこと、シカゴ市では万国博覧会が開催され、そこで「シカゴ・トリビューン紙」のアーチ・ウォード運動部長は、スポーツ記念行事として何かいいアイデアがないかと頭を悩ましていた。そんなある日のこと、ある少年から一通の手紙が舞い込んだのだ。
「カール・ハッベルが投げて、ベーブ・ルースが打つ。そんな夢のような試合が見たいのです」
まったくもって夢のようなハナシだった。

当時ナショナル・リーグのジャイアンツに所属していたハッベル、一方アメリカン・リーグでは、ヤンキースのベーブ・ルースと、同じニューヨークに本拠地を置いていた2人が対戦するには、ワールドシリーズしかなかった。ウォード運動部長はこの投書の訴えはもっともだと思い、紙上をかりて猛烈なキャンペーンを開始した。それが、シカゴでの万博と結びついてオールスター・ゲームの実現となった。万博の付帯行事として企画されたものが、以後はそのこととは関係なく今日まで続いている。

今でもオールスター・ゲームの最優秀選手には、かれの名をとってアーチ・ウォード賞が授与されている。むろんオールスター・ゲームをドリーム・ゲームと呼ぶのは、少年の投書の字句をそのまま流用している。


さて、少年の一通の手紙からはじまった第1回オールスター・ゲーム。3回にベーブ・ルースがオールスター第1号ホームランを放ち、ハッベルとの対決に夢がふくらんだ。ハッベルは最後の2イニングに登板したが、ベーブ・ルースが最終回にベンチに下がったため、夢の対決は実現しなかった。

しかし翌年1934年、ニューヨーク・ジャイアンツの本拠地「ポロ・グラウンド」でおこなわれた第2回オールスター・ゲームで夢の対決が実現した。

前年に続き選ばれたハッベルは先発し、ルースは3番で先発出場。初回立ち上がり、ハッベルは不調で、先頭打者チャーリー・ゲリンジャーに安打、2番ハイニー・マナシュに四球を出し、無死一、二塁のピンチを招いた。ナ・リーグファンからは、がっかりしたためいきがもれた。迎えるバッターは、ベーブ・ルース。ついに夢の対決が実現した。

初球ボールの後、ハッベルは3球スクリューボールを投げ、ルースのバットはかまえた肩から一度もおろさず、見のがしの三振。さらにハッベルは、ルー・ゲーリッグを空振り三振、ジミー・フォックスを空振り三振に抑えピンチを切り抜けた。この間、わずか11球だった。史上最強といわれた強打者をそろって三振に打ち取り、5万人の観客はおどろいた。が、それだけでは終わらなかった。続く2回もアル・シモンズを空振り三振、ジョー・クローニンを空振り三振と、後の殿堂入りのスラッガーたちを5者連続三振に抑えた。

ビル・ディッキーは踏ん張ってシングルヒットを放ちはしたが、投手・ゴーメッツをまたも三振に打ち取り、二イニング6奪三振になった。そして、3回を無失点におさえ、交替した。まさに伝説が、ここに誕生したのだ。今なおオールスター史上最高のピッチングといわれている。試合はというと、ア・リーグがうっぷんばらしの大暴れ、9ー7で勝利した。

現在、オールスターこと「ミッドサマー・クラシック(真夏の古典劇)」は、毎年7月の第2火曜日に1試合だけおこなわれる。開催地は各チームの持ちまわりで、現在30チームあるメジャーリーグでは、地元にオールスターがやってくるのは「30年に一度の」メジャーリーガーにとってもファンにとっても夢の大舞台なのだ。

1928年ニューヨーク・ジャイアンツでメジャーデビューしたハッベルは、1年目から10勝6敗、防御率2.83の成績を残し、2年目の1929年には18勝を上げ、ノーヒット・ノーランもマークするなど、着々と一流への階段を駆け上がっていった。

1903年、ミズーリ州カーセイジ生まれのオクラホマ州ショーニィ育ち。綿花栽培の農夫の子で、少年時代は綿つみもやった。このころ、かれは「ハングリー・ルッキング・カウボーイ」といわれていたらしい。ボロをまとい長身痩躯で、ホホがこけていたからだったという。

20歳でマイナー・リーグ球団の投手になり、以後5年間あちこちを転々としたが、どこへ行っても、
「この細いからだで、9回を投げられるのか」
といわれたようだ。そんなころ、テキサスのビューモント球団にいたときに、ジャイアンツのスカウトの目に止まった。そのころから、スクリューボールをなげはじめていた。ヒジに過酷な負担がかかるという理由でためらってはいたのだが、捕手出身のロバートソン監督が、なんのさしつかえもない、といったのだ。
「金はいくらかかっても、取るべきだ」
と、知将・マグローに報告。マグローは出頭してきたやせっぽっちのハッベルをひと目みただけで、即決。どこをどう見たのか、さすがマグローというしかない。



コントロールもよかったし、チェンジ・オブ・ペースもすばらしかった。ここにある記者の論評がある。
「もちろんワン・ピッチ・パフォーマーなんかじゃない。かれは堂々と速球でストライクを奪ったし、威力あるカーブもしかり。そもそも四球は、5回に1個の割合でしか与えなかった。だがしかし、スクリュー・ボールなしでは、かれは大成できなかった。また、スクリュー・ボールなしではメジャー・リーグに上がる日はもっと遅れたはずだ」
また、あるコラムニストは、
「かれがスクリュー・ボールを投げるとき、その腕はねじりドーナツのようになる」
と、うまい表現をしている。それゆえにこそ、ヒジに与える負担は相当のものだ。前記の記者は、
「かれのリストはケタ外れに長く、しかもしなやかだった」
と、指摘。だからこそできた芸当なのだろう。でも、晩年にはヒジを手術して軟骨を除去している。

さて、1943年は、ハッベルが現役選手生活の最後の年にあたる。39歳になっていたし、まわりの目から見て腕の酷使からじつに痛々しく映っていたようだ。この年、ジャイアンツは泥沼に落ち込み、5連敗してしまったことがある。監督はジャイアンツ生え抜きで、あの一本足の強打者、名外野手のメル・オットーだった。

オットー監督は、無理を承知でハッベルを連敗ストッパーになってもらおうと考えた。チームの現状、悩みをえんえんと1時間も話した。うんざりしたかれは、途中で話をさえぎって、
「オッティ、オレはなにをすればいいか、ズバリいってくれ。明日の試合に投げようか、ローテーションに入って投げつづけようか。まあ、明日どうなるか、お楽しみだよ」
と、切り出したのだ。翌日の対カージナルス戦に久々に登板し、あっさり勝ってしまった。そして、早速ローテーション入りして4連勝までしてしまった。

王様の貫禄というか、18回完投無失点というものがある。1933年のポロ・グラウンドでのことだ。対カージナルス戦、相手投手もよくぞ投げたが17回疲労のため降板。ハッベルは頑張り続け、ついに18回完封。1ー0で勝利投手になった。被安打6,奪三振12,無四球。走者が二塁へすすんだのは、わずか5人。三者凡退が12イニングもあったというすばらしい投球だった。この快挙は、そのシーズンの活躍の前兆となるべきものであったのか、23勝をあげ、ワールドシリーズにも進出。対セネターズ戦から2勝をあげ、優勝の立役者となった。ナ・リーグのMVPになったのはいうまでもない。

ただ、ハッベル自身はというと1940年、ドジャース相手にやってのけた1安打完封の試合がもっとも印象にのこっているとのこと。27人の打者に対して81球、外野へ飛んだ打球はわずか3本だけという力投だった。ジャイアンツにとって、かれはクリスティ・マシューソンに次ぐまさにご自慢の大投手であり、メジャー・リーグ屈指のサウスポーのひとりでもあった。

15年間の数々の記録はすばらしいものがある。1933年から5年連続20勝以上。最多勝3回(1933,36,37年)、最優秀防御率3回(1933,34,36年)、最多奪三振1回(1937年)、MVP2回(1933,36年)。1936年にはシーズン16連勝を記録し、翌1937年と合わした27連勝はメジャー記録などなど。

引退後、かれはニューヨークからサンフランシスコ・ジャイアンツへと、一貫してファーム・ディレクターの職にあった。

1944年に、ハッベルがつけていた背番号・「11」がジャイアンツ初の永久欠番に指定された。また、ナショナル・リーグ初の永久欠番指定選手であった。1947年、アメリカ野球殿堂入り。

参考: 「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)