ルー・ゲーリック、その偉業!
Lou Gehrig
「今日は、休ませて欲しい。もう十分考えました」
と、大ヤンキース主将・ゲーリックは、ジョー・マッカーシー監督に、こう申し入れた。1939年5月2日のことだ。
「よくわかった。引退発表はいつにしたいかね、ルー」
しばらくかれは、監督の顔をじっとみつめ、
「今日だ!」
この日を限りに、「アイアン・ホース」とあだ名され、そのあだ名に値する前人未踏の2130試合連続試合出場はピリオドをうった。
デトロイトのホテルで、多くの新聞記者たちに囲まれ、マッカーシー監督は、
「アイアン・ホースは、自分から休場を申し出た」
と、記者会見をはじめた。そんなとき、たまたまロビーにいた一人の初老のビジネスマンが、あわただしく走りまわっている記者連中の一人に、「なにがあったのか」、とたずねた。事情を察したその紳士は、突然ヘタヘタとソファーに倒れ込んでしまった。
なんの因果か、この紳士、新人・ゲーリッグにポジションを奪われたウォーリー・リップ一塁手だったのだ。15年前のこと、ひどい頭痛のため当時の監督ハギンスに、休みを申し出たのだ。もちろん、かれは1試合だけのことだと思っていたし、監督もそう思いこんでいた。が、運命とはわからないもの、たった一試合でかれらの立場が逆転したのだ。1925年6月2日のことだった。
1903年、ドイツ系移民の長兄として、ゲーリックはニューヨーク市・アッパー・イーストサイドに生まれた。父・ヘンリーは飾り職人、母・クリスチナはドイツからの移民だった。もちろん、家庭は決して豊かではなかった。
でっかい体にいつも同じボロをまとい、そのくせおだやかでニコニコと笑顔をたやさない少年であったらしい。それが、周囲のものには、ちょいと「うすのろ」にうつったようだ。アルバイトをしながら、小遣いを稼ぎ、その合間にサッカーや、フットボールを楽しんだ。
そのゲーリック、スポーツとりわけ野球に関しては出色だった。「建築家になれ」と、両親の厳命もあり、名門・コロンビア大学に入学するも野球はすでにプロの域に達していた。あの大監督、ジョン・マグローが大いに関心を寄せていたともいう。
そんな折も折り、両親がともに突然倒れたのだ。かれは大学を中退し、以前から誘いを受けていたヤンキースに入団することになる。そのさいの契約金・1500ドルは、すべて両親の入院費用となった。
1年目は、マイナーのハートフォード球団との往復。2年目になって、やっと定着。名将ミラー・ハギンスのお気に入りとなりはしたが、代打ばかりの出場機会が続く。そんなある日、チャンスが突然舞い込んできた。レギュラーのリップ一塁手が頭痛を訴えたのだ。
「でっかいぶきっちょな男をためしてみよう」
と、ハギンスは初の先発出場をゲーリックにあたえた。降ってわいたようなチャンスがやってきたのだ。ゲーリックには、その一試合で十分だった。かれの攻守で魅せたプレーには、素晴らしいものがあった。もうはずせない。1日で、ヤンキースの一塁手に定着したのだ。この年、むろん残り試合を全部出て、本塁打・20,打率・295,打点・68のすばらしい戦績だった。
かれの打撃フォームは、ちと変わっていた。どっしりとしたあの太い足で思い切ったワイド・スタンスをとり、打つときのストライドはほんのわずか、そしてあのぶっとい腕で力強くスイングするのだ。
それ以来、足掛け14年間、ヤンキースの主砲として全試合出場することになる。あやうく連続出場が途切れそうになったときがあったが、なんとショートを守り難をまぬがれた。まあ、これは余談。
その翌年、待望のルース・3番、ゲーリック・4番の黄金の「ワン・ツーパンチ」が誕生。若きゲーリッグ、最良の年は、くしくもルースが史上空前の60本塁打を記録した年であった。打率.373、47本塁打175打点に218安打を挙げ、この年の一シーズン長打はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位であり、また447塁打も歴代3位の数字である。この年のア・リーグMVPはもめにもめた。結局のところ、脂の乗り切ったルースではなく、24歳のゲーリッグに与えられたのだ。
しかし、全米の野球ファンの注目を浴びる華麗なるルースに比べ、なんともゲーリックは不運な男だったことか。それが不思議と、ゲーリックの野球人生につきまとうことになる。大記録をつくったと思いきや、大事件が発生し、ゲーリックの記録は小さな囲み記事となる。
その好例としてあげられるのは、対フィラデルフィア戦での1試合4打席連続ホームランの大記録達成だ。2本がセンター奥へ、2本がライトスタンド越えだった。マッカシー監督が飛んできて、
「よくやった。今日こそはお前の”ヒーロー”を邪魔する奴はいないぜ」
ところが、いたのだ。その日、あの不滅の監督、ジョン・マグローが引退を表明したのだ。国内の全新聞のスポーツ欄のトップで、このニュースをのせた。ゲーリックの4打席連続ホームランは、紙面の片すみにおいやられてしまったのだ。
このあたり、あの大作曲家・ブラームスに似ていなくもない。いくら傑作を書いても、その上にはベートーヴェンがいる、モーツィアルトがいる、それにシューベルトがいるって具合だ。
さて、この大記録達成のウラ話ついては、フィラデルフィア側からも、おもしろい話がのこっている。監督は、コニー・マックだ。
好投手・アーンショウが、連続3打席本塁打を打たれていた。3本目には、さすがのマックもあきれかえり、投手交代。アーンショウが舌打ちならし、クラブハウスに引き揚げようとすると、マックは、
「ここに、座れ。お前の攻め方は間違がっていたのだ。どうやって打ち取るか、見学して勉強しろ」
と、さとした。不服のアーンショウは監督の隣りに座って、戦況を見やった。すると、どうだ、ゲーリックは何の苦もなく4本目の本塁打をかっとばしたのだ。
「ぼくはライトスタンドに打たれたが、かれはレフトスタンドに打ち込まれた。本塁打の方向が変わっただけの話じゃないですか」
球歴はというと、首位打者1回、本塁打王3回、得点王4回、打点王5回、さらにはMVP4回。そんなかれが、1938年、打率・295で、はじめて3割を割り、不調といわれはじめた。翌年39年、体の動きが鈍くなり、誰の目にも不調と映った。
球を追えないゲーリックを、観衆は目の当たりにした。その前年、入団以来初の3割をきった。かれらは不調が続いているように錯覚してはいたが、その言葉だけで片付けられない「何か」をようやく感じ取った。この年の5月2日、監督・マッカシーに、
「腰が痛むのです」
と、申し出たのだ。
いわゆる「ゲーリック病」と知られるALS(筋萎縮性側策硬化症)が原因だ。専門家によると、ゲーリックがヤンキース入団時より進行がはじまっていたともいう。
ゲーリックの病は、悪化する一方だった。そして翌年・1939年7月4日、”ルー・ゲーリックを讃える日”が、もっとも悲しく、そしてもっとも感動的なシーンが、満員の観衆のもと、ヤンキー・スタジアムでおこなわれた。
僚友だったルースらを前に、やせこけたゲーリックは、ほほをつたう涙をぬぐおうともせず、たよりなげな足でマイクにむかった。
「私は、今日の自分をこの世でもっともしあわせな男と考えています」
この翌年に、ゲーリックは38歳の若さで死んだ。死後、「プライド・オブ・ザ・ヤンキース」というゲーリックの伝記映画がつくられ、似た風貌の若き日のゲーリー・クーパーが扮した。ルースも特別参加した。
かれの背番号・「4」はヤンキースの永久欠番になっている。もう一つ、愛用のロッカーはクーパース・タウンの「野球・栄誉の殿堂」に、ユニホームとともに保存されている。
ルースにも成し遂げられなかった三冠王。元祖満塁男がほこるように23本は今でもMLB記録だ。カル・リプケンに抜かれたとはいえ、2130試合連続出場の記録は、今も燦然と輝いている。
参考:『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)