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車イスのスカウト、ロイ・キャンパネラ

mlb batters(Right)
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車イスのスカウト、ロイ・キャンパネラ

Roy “Campy” Campanella

その夜、かれのお店である酒屋に立ち寄り、帰途につこうとしていた。自宅近くにS字状のゆるやかなカーブがあり、前日降りつもった雪が、寒気ですっかり凍結していた。車はスリップし、横転した。大きな雪の塊があって、それを避けようと路肩に寄ったのが、アダになったようだ。パトロール中の警官に発見された。

借りものの車であって、そのうえスノー・タイヤを装着していなかった。また、所属するチームがロサンゼルスに本拠地を移転することが決まっていた。そのため新居、こどもの学校などでの問題がかさなり、心労がたまっていたのかもしれない。シーズン・オフでの出来事だった。生きていたのが、不思議なほどだった。脛骨と脊髄をやられた。それ以後、自分の足で立つことなく、車イスの世話になることになった。

かれの名は、ロイ・キャンパネラ(Roy Campanella)。愛称、”Campy”キャンピー。近代ベースボール史上最高の捕手の球歴も終止符を打つことになった。
「いまわたしは車イスにのったまま、わたしの人生について書こうとしているが、胸中はさまざまな思いでいっぱいだ」
との書き出しでの、「イッツ・グッド・トゥ・ビ・アライブ」という名著がある。全米のベストセラーになり、テレビ映画化されて、感動の嵐をまきおこした。リーグMVPを3度獲得、ドジャース在籍10年間でチームを5度のワールドシリーズに導いた。

イタリア人の父と、アフリカ系アメリカ人の母を持つキャンパネラ。フィラデルフィアのジャーマンタウンに生まれ、7歳のときナイスタウンに引っ越した。父は八百屋兼魚屋をいとなみ、おデブちゃんでお金に弱い母と、兄夫婦の家族だった。父の口癖は、
「野球はならず者のすることだ」
と、いい続けていた。そんなわけだから野球用具はすべて借り物であり、ドヤされながらもキャンピーは野球を続けた。

12,3歳ころから、すでに大人たちにまじって硬式野球を楽しんでいた。ポジションは最初から捕手が多かったが、キャンピーはもういっぱしの捕手でもあったのだ。

なんと15歳で、ニグロリーグのワシントン・エリート・ジャイアンツに入団。まさしく腕一本で、お金を稼ぐようになる。最初の頃、土、日曜日にプレーして25ドルもらったそうだ。ただ、日曜日は安息日のため、母親に野球を禁止されたが、キャンピーがかせいでくるお金が父のお店でのかせぎよりも多くなった。それで、しぶしぶ教会に出席した後なら野球をやっても構わないと妥協せざるを得なかった。

ドジャース入団まで、キャンピーはニグロ・リーグのあちこちを転々とし、後年、
「いってみればベースボール・ジプシーだった」
と振り返り、1年に300試合以上マスクをかぶったという。あの幻の黒人投手サッチェル・ペイジの球をもうけた。が、捕手だけでなく投手も外野手もやり、やがては押しも押されぬニグロリーグの花形選手になった。従来のキャッチャー体型でロリー・ポリー(ズングリ)型だったが、動きは猫のように素早く、しかもライフル・アームと異名をとっていた鉄砲肩の持ち主だった。それに、ピックオフ・プレーの達人でもあった。

やや後年になるが、1949年のワールドシリーズでのこと。ヤンキースの走塁のスペシャリスト、フィル・リズトー遊撃手が、同じトミー・ヘンリックとともに刺されている。とりわけ、リズトーは、
「三塁でピックオフにひっかかったのは、後にも先にも、あのとき一回きりだ」
と、ぼやくことしきり。



25歳のとき、キャンピーはかのやり手GMブランチ・リッキーに認められ、ブルックリン・ドジャースとマイナー契約を結び、当時のクラスBリーグのナシュア球団に所属。3A、開幕2Aとマイナーで過ごし、同年シーズン後半にはメジャー昇格を果たした。27歳のときだった。遅咲きの選手もいいところだ。ジャッキー・ロビンソンがデビューした翌年、1948年だった。その打力に加え守備、強肩など総合力の高さを発揮。1949年には打率2割8分7厘、22本塁打、82打点。オールスターゲーム、ワールドシリーズへの出場。

1951年には、打率.325、108打点を上げ、リーグのMVPに選ばれた。1953年には142打点、103得点、41本塁打で二度目のMVPを獲得、3度目のMVPは1955年で、この時は打率.318、107得点、32本塁打を記録した。まさに本領発揮というところだ。

同年のワールドシリーズでは、それまで何度も対戦し敗退してきたニューヨーク・ヤンキースとふたたび対戦。キャンピーは2勝先行された後の第3戦と第4戦に本塁打を放って対戦成績をタイに持ち込み、念願だったワールドシリーズ制覇を成し遂げた。

しかし、運命の日が待ちうけていた。1957年のオフに、交通事故が元で現役を引退。この事故により下半身麻痺となり、以後終生車椅子での生活を余儀なくされた。最初は手も動かせない状態であったが、懸命なリハビリに取り組み両手を動かせるまでに回復した。

1959年には非公式戦であったが、ヤンキースとの引退試合が挙行され、一度もロサンゼルスでプレイすることのなかった名捕手に大歓声と総立ちの拍手を送った。そこには、キャプテンのピー・ウィー・リースが押す車椅子に座って、涙があふれでていたキャンピーがいた。本拠地ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを埋めた観衆は93,103人にものぼったという。

平素は、古巣ドジャースの特別スカウトとして活躍。ドラフト制度がはじまり、多忙な日々を過ごしていた。またアドバイザーとして、捕手はもちろんコーファックスやドライスデールほかの若手投手の指導をおこない、車イスの身ながら長くチームに携わっていた。その合間には、各地の身障者施設やリハビリ・センターにでかけ講演したり、身障者のためのチャリティがあれば、すすんで顔をだしたりした。

1969年、アメリカ野球殿堂入り選手に選出された。アフリカ系アメリカ人関係の選手としては、チームメイトだったジャッキー・ロビンソンに次ぐ栄誉だった。その3年後の1972年6月4日に、キャンパネラの背番号『39』が、サンディ・コーファックスの『32』、ジャッキー・ロビンソンの『42』とともにドジャース初の永久欠番に指定された。

とはいっても、その僚友のジャッキー・ロビンソンとは、仲が良かったわけではない。白人に対し、闘志を剥き出しにしたジャッキーに対しキャンピーは誰に対しても、いつも笑顔を絶やさなかった。それだけに、とりわけジャッキーには、へつらっているとしか思えなかったようだ。

1993年6月26日に心臓発作のため、カリフォルニア州ウッドランドヒルズの自宅で死去。ドジャースは、2006年9月に球団の所属選手・コーチらの投票により、最も勇気とリーダーシップを発揮したドジャース選手を選出する「ロイ・キャンパネラ賞」の創設を発表した。

「誇り高き大リーガー」(八木一郎著 講談社刊)