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消え去った英雄! ロベルト・クレメンティ 

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消え去った英雄! ロベルト・クレメンティ

Roberto Clemente

哀悼。この度の能登半島地震により亡くなられた方々に深く哀悼の意を表しますとともに大切な方を亡くされた方々、被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。さらには、その被災地に救援物資を届ける予定だった海上保安庁の飛行機に搭乗し、羽田空港での接触炎上事故で亡くなられた方々にも深く哀悼の意を表します。

7人兄弟の末っ子としてプエルトリコの1934年8月18日、カロライナ州バリオサンアントンで生まれたかれは、後にMLB史上に名を遺す選手になった。メジャー・リーグでの第1世代カリブ・中南米出身の選手の一人で、通算打率 .317と3000安打、外野手として12回のゴールドグラブと、MVP 1回受賞など攻守を兼ね備えた、当代最高の選手であった。

だが、野球界での活躍だけではなく、人道的活動家として、母国と故郷のコミュニティに対する支援にも尽くしたことでも知られていた。人柄、社会奉仕の精神に選手たちの手本にされた偉大なる大リーガーだった。当時から現在に至るまで、大リーグで活躍するすべての中南米出身の選手たちの精神的支柱ともいえる存在でもある。

悲劇的な死を遂げた「プエルトルコの英雄」である。「ボブ・クレメンティ」と呼ばれていたが、ファースト・ネームで呼ばれることの方を、かれは好んだようだ。


プエルトリコのサンファン国際空港から、1機の飛行機が離陸した。1972年のニュー・イヤー・イブのことだ。大晦日の夜で新年まであと2時間という慌ただしいなかで、ニカラグアに向けての出発であった。12月23日ニカラグアの首都マナグア周辺で、マグニチュード6.3の大地震が発生。市内中心部の約70%の建物が倒壊、または損壊。道路や橋も大きな被害を受け、交通網が寸断された。

さらに、地震によって発生した火災が市内を拡大、多くの人々が避難を余儀なくされた。1万1千人が命を落とし、30万人が家を失った。多数の死傷者が出てケガ人の看護と搬送、薬品・食料・飲料水など生活関連物資の補給が急がれる状況だった。

そんな被災者に救援物資を届けようとチャーターした飛行機が、離陸後まもなく爆発してカリブ海に突っ込んだ。あってはならないことだが、ふつうの遭難事故だった。しかし、この墜落事故のニュースがすぐに世界を駆けまわった。搭乗者名簿の中に、「ロベルト・クレメンティ」の名があったからである。社会活動家でもあったクレメンティは救援物資を送ったが、それが混乱に乗じて盗まれたことを知り、次は自分自身で届けることにしたのだった。

その12月29日夜のこと、クレメンティの3000本安打達成を祝うパーティが催され、大地震のことが話題となった。すでにクレメンティを中心に救援が検討され、翌24日から救援活動がおこなわれていた。クレメンティは自腹を切って調達したり、寄付を仰いだりして、集めた救援物資を募った。が、ニカラグアの軍隊の兵士がその物資を盗み、モルヒネを売りつけているという情報を知ったクレメンティは、
「私がニカラグアへ飛べば、盗難はなくなるだろう。このロベルト・クレメンティから物を盗むことはないはずだ」
といいはって、ニカラグアへ行くことになる。

チャーター料が安いため、ジェット機ではなくターボプロップ機・DC-7に最大積載量を上回る救援物資を積み、クレメンテを乗せたDC-7は離陸した。プエルトリコとニカラグアを往復しながら、4回目のフライトに飛び立った直後の悲劇であった。

片方のエンジンの調子がおかしくなり、フライトレコーダーによると、操縦士が引き返すといい、急旋回した直後にカリブ海へ墜落。事故後、沿岸警備隊の捜索や、クレメンティの友人たちによる救助活動がおこなわれたが、機体の一部を回収したのみで、クレメンティの遺体は発見されなかった。書類かばんその他が入手できただけだった。ロベルト・クレメンテは人々を救う活動の途中で、わずか38歳で命を落としたのだ。

もともと慈善活動を積極的におこなうことで一目置かれていたクレメンティであったが、この大晦日の悲劇はメジャー・リーグの関係者に大きなショックを与えた。人道精神を讃えて、前年から慈善活動など社会的な活動を積極的におこなう選手に「コミッショナー賞」を贈ることをはじめていたが、この賞を「ロベルト・クレメンティ賞」に改称。MVPに匹敵する名誉ある賞となっている。

デビューした1955年から1972年まで、毎年安打数は100本を超えて、1960年から1972年まで途中1年(1968年)を除いて3割を打ち続け首位打者に4度輝き、通算3,000本安打を達成したばかりであった。

1972年9月、あらゆる選手がもっとも熱望する3000本安打に、後1本とせまっていた。パイレーツの英雄ホーナス・ワグナーの球団記録を各分野ですでに破っていた。本拠地・スリーリバー・スタジアムで迎えた対メッツ戦での第2打席、左中間のフェンスをワンバウンドで超える2塁打を放った。”3000”の数字が、スコアボードいっぱいに輝いた。観客はいっせいに立ち上がって、歓声をあげた。
「わたしはピッツバーグのファンと、プエルトルコの人々のためにあのヒットを打ったんだ」
と、極度に自意識が高く、観客の行動を迷惑がるクレメンティがそんな性格に似合わず、観客の反応に深く感銘したのだ。

守備でも、右翼手としても群を抜いた強肩で、その強肩は「ライフルアーム」と称され、相手走者には恐れられていた。1試合最多補殺5回は、ナ・リーグ最多。1961年にはシーズン27補殺を記録し、メジャー生活18年で通算267補殺を記録している。
「ペンシルベニアで投げたボールが、ニューヨークまで届く」
「クレメンティの守るライトに打球が飛んだなら、それが観客席以外であったら進塁をあきらめろ」
ともいわれた。その強肩と判断の良さとで、1961年から1972年まで12年連続ゴールドクラブ賞に選ばれて、走攻守のすべての分野で完璧なパーフェクト・プレーヤーであった。



クレメンティの母親は、2人の子供を連れて再婚。その後、5人の子供を産み、ロベルトはその末っ子である。家庭は非常に貧しく、父親は砂糖農園で働き、母親はプランテーション労働者のための食料品店を営んでいた。クレメンティも家計を支えるために幼い頃から牛乳を配ったり、トラックの積み下ろしなど家族のために仕事をしていた。

兄の出場する少年野球リーグ戦について行っては、見よう見まねに野球をはじめる。少年時代からスポーツの才能は抜きんでており、高校時代には陸上競技、やり投、走高跳などで活躍。モンテ・アーヴィンへの憧れもあり、最も力を入れていたものは野球だった。

高校を卒業したクレメンティには、9以上のMLB球団が入団交渉に来た。1952年に、ロベルト・クレメンティは、サントルチェのプエルトリコの町にあるプロチームのスカウトによって発見され、月額40ドルと500ドルのボーナスで、契約。メジャー・リーグのスカウトの注目を集めはじめたのだ。

じつは最初にニューヨーク・ジャイアンツから入団交渉にやって来たが、ドジャースは優れた選手をライバル球団に入団するのを防ぎたいこともあって、契約金10000ドルと年俸5000ドルをクレメンティに提示。1954年2月、ドジャースと契約し、球団はモントリオールのマイナーリーグチームにかれを送り込んだ。

1954年シーズンはドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズでプレイする。選手としての能力は認められたが、ドジャースには当時、メジャー全体の黒人選手20人中5人と、非常に多くの黒人選手が在籍していたため、白人ファンの観客動員に影響を及ぼさないように球団はクレメンティをマイナーでプレイさせたのだ。

そんなとき、ピッツバーグ・パイレーツのスカウトは投手補強のため、モントリオール・ロイヤルズのジョー・ブラック獲得を狙っていたが、クレメンティを目のあたりにし、クレメンティ獲得を狙うようになった。1954年11月、クレメンティはマイナー・リーグドラフトにあたる制度でパイレーツから指名を受け、移籍。背番号「21番」、かれが選んだものだ。

当時のメジャー・リーグには、”4000ドル以上のボーナスを受け取った選手は、無条件2シーズンの間、メジャー・リーグロースターに含まなければならない。”という規定があり,これを破った場合、その選手をルール5ドラフトにエクスポートする必要があったからだ。結局のところ、ドジャースはかれを出場させず、存在自体を非表示にした。

しかし,かれを非表示にする目論見は、最終的に失敗。すでにドジャースで黒人差別をなくした伝説的なブランチ・リッキーがピッツバーグ・パイレーツの会長に就任し、クレメンティを自分のチームに連れて来たのだ。1955年4月に、メジャーデビューを果たした。この年、早くもレギュラーに定着。

56年には、打率.311をマークして、才能を開花させた。66年にはチームは3位ながら202安打、29本塁打、119打点の成績をマークしMVPに輝いた。大舞台にも強く、60年、71年のワールド・シリーズでも活躍した。以後1972年に不慮の死を遂げるまでの18シーズン、パイレーツ一筋のメジャー・リーグ生活を過ごした。ラテンアメリカ人であると同時にアフリカ系であるかれは、特にメディアの注目を集め、多くのストレスにさらされてもいたのだ。

クレメンティは打撃ではあまりにも多くの素晴らしいプレーを残したので、そのなかから最高のものを選ぶのは難しい。かれ自身が最高の満足感を得た試合は本塁打3本、2塁打1本をはなち打点7ををあげた対レッズ戦である、と語ったことがある。試合前に本塁打を打つと宣言し、その望み通りにできた事実によっている。しかしながら、本塁打3本を打ち、打点7をあげた選手はほかにもいる。

しかし、1970年8月22日・23日の2日連続して猛打を浴びせかけた選手は、野球史上にはいないのである。敵地・ドジャー・スタジアムでのこと。22日の試合は、ナイター。1−1と投げ合いが、延長15回まで続いていた。パイレーツの9安打のうち、4本がクレメンティが放ったものだった。16回表クレメンティは5本目の安打をライトにライナーを放った。そして次打者のシングルヒットで生還し、逆転に成功した。そのまま2−1で勝利したものの疲れ果て、身を引きずるようにグラウンドを後にした。4時間21分を費やした。

翌日、午後1時開始予定の試合のため、朝早く起きなくてはならない。36歳になったクレメンティのような選手はは、長引いたナイターの翌日おこなわれるデー・ゲームには出場しないのが普通だ。しかし、チーム事情があった。主砲ウィリー・スタージェルが脚の故障で欠場していた。ダニー・マート監督の杞憂も、ここまで。なんと2度めの5打席連続安打を記録して、パイレーツは11−0と完勝したのだ。
「あの第2試合にロベルトを出すべきじゃないなかったろうと思う。前夜のナイターで非常に疲れていたうえ、睡眠不足だったので、打撃練習はしなかったんだ。ともかく24時間以内に連続25回もプレーしたんだ。あんなに多くのヒットを打つには、わたしなら3〜4週間かかっていたろうね」

もう一つ、興味深いエピソードがある。それは、かれが左利きだったということ。クレメンティは、バットを大きく振りまわして打つスイングが特徴、これは左利きであることが有利に働いたのではないかと推測されるのだ。

クレメンティの死を悼み、1973年1月3日に、アメリカ野球殿堂入りの選考で特別措置を取ることを発表。ルー・ゲーリッグに次いで、史上2人目となる期間短縮の特別措置が取られた。野球殿堂入りの対象者を引退後5年以上過ぎてからという内規に例外を設けて、クレメンティは1973年、92.69%の得票率で殿堂入りを果たしたのだ。それとともに、野球殿堂にアメリカ外出身で入った最初のプレーヤーになった。かれの背番号「21」は、パイレーツの永久欠番に指定された。

クレメンティは、野球選手としてだけでなく、人としても、多くの人々に感動を与えた偉大な人物だった。かれの功績は、これからも語り継がれていくだろう。

1993年、「良い社会をつくる」という目標を掲げてロベルト・クレメンティ財団が、かれの未亡人ベラと息子のルイス・クレメンティを代表として設立され、ロベルトの遺志を継いでより良い社会の為の活動を続けている。オリスの「ロベルト・クレメンティ」記念モデルには、かれの雄姿が刻印されている。

それと、ピッツバーグ市内においても、パイレーツのホーム球場であるPNCパークのすぐ横を通る橋が、かれの名にちなんでRoberto Clementi bridgeと命名され,パイレーツの前球場スリー・リバース・スタジアムがあった場所にロベルト・クレメンティ記念公園が造成された.PNCパークの右側フェンスは、Clementi Wallと命名されている。フェンスの高さは、かれの背番号から取った21フィート(約6.4m)である。