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‘ケンカ屋’、マーチン!

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‘ケンカ屋’、マーチン!

“Billy” Martin

‘ケンカ屋’ とも呼ばれ、現役時からみられた武闘派ともいえるかれの短気と、猪突猛進な性格は多くのトラブルを生んだ。しかし、個性派ぞろいの選手たちとケンカを繰り返しながらも、チームをしっかりコントロールしていた名監督でもあった。本塁打の破壊力と、機動力を生かした攻撃的な野球スタイルは、「ビリー・ボール(Billy Ball)」と呼ばれた。現役時代からつけていた背番号・「1」は、ヤンキースの永久欠番。

1989年12月25日のこと、友人のピックアップトラックに同乗していたマーチンは、アイスバーンで横転し亡くなった。61歳と早過ぎる死である。この訃報を聞いたワンマンオーナー・スタインブレナーは、
「そう滅多にいない男だった。家族の一人を亡くしたような気持ちだ」
というコメントを残している。


1977年・78年、ワールドシリーズ連覇。75年にヤンキースの監督に就任、76年にワールドシリーズで ‘ビッグ・レッドマシーン’と呼ばれたシンシナティに4連敗して敗れたものの、77年にドジャースに4勝2敗で勝ち、シリーズを制覇した。とりわけ、優勝を決めた第6戦でのオークランドから移籍したわがままレジー・ジャクソンの3打席連続ホームランは圧巻だった。レジー・シリーズといわれたゆえんだ。

ジャクソンが大歓声のなか、ベースを一周してダグアウトに帰るや、待ち受けたマーチンが首を抱き寄せ祝福。が、マーチンと主砲・ジャクソンは犬猿の仲で、ケンカは日常茶飯事だったにもかかわらずだ。これぞ、男どうしだ。

また、当時の主将だったサーマン・マンソンとも、なぐり合い寸前の口論をもした。が、かれがオールスター休みを利用して自家用機で自宅に帰ろうとしたときに、木に接触する墜落事故で亡くなった一報を、川釣りの最中に報道陣から聞かされたマーチンは、
「お前たちのいうことは信じない、マンソン自身が私に報告に来るまで待つ。それが、ヤンキースだ」
と、釣竿を持つ手を震わせながら応えたという。

超がつくほどのワンマンオーナーといわれたスタインブレーナーとも、しょっちゅうケンカして愛憎入り混じった関係も有名。これまた、犬猿の仲だった二人を皮肉ったビールのCMも大受けだった。
「オレたち二人はまるっきり意見が合わない。だが、このビールのうまさについては、不思議に意見が合うな」
短気で独善的なオーナーと、直情径行で己を曲げない監督。「まるでSM関係」、と評するマスコミもいた。

このオーナー、ただのボンボンじゃない。父から手漕ぎ船を5隻買ったのが、事業のはじまり。そして、一気に年商を伸ばし、大会社に育て上げた。全米3大ネットワークのCBSの重役でもあったが、そのCBSがヤンキースを買収。が、ごくつぶしの集まりだったヤンキースを手放そうとした。そのとき、買い手にまわったのがスタインブレナーだった。次々とフリー・エージェントをとり、トレードも断行。まったく情け容赦のない血の入れ替え大作戦をおこない、かれの宿願であったヤンキースの誇りを取り戻したのだ。

当時、マーチンは監督室に次のようなスローガンを掲示していた。

Rule #1  The boss is always right.(第1条 ボスは常に正しい)
Rule #2  When the boss is wrong, refer to rule #1.(第2条 ボスが間違っていると思ったら第1条を見よ!)
もともとはオーナーのスタインブレナーの部屋にあったもので、これを見たマーチンが同じスローガンを自分の部屋に飾ったという。これでは両者が犬猿の仲であったとしても当然だろう。

1975~85年にかけての11年間で、2人は4回もくっついたり別れたりを繰り返した。76年にリーグ優勝、77年に世界一を勝ち取ったが、78年途中に最初の解任。翌年途中に早くも復帰したが、セールスマンへの暴力事件で2度目の解任…といった具合に、短期間で就任、クビというパターンを繰り返した。

それだけに、87年10月に5度目の監督復帰を果たした際も、ほとんどの人間が長くは持たないだろうと予想していた。そして、実際その通りになった。88年6月23日、ヤンキースはマーティンの解任を発表した。その時点で40勝28敗でア・リーグ東地区2位と成績は悪くなかったが、直近の9試合で7敗、20日からのデトロイト・タイガースとの首位攻防戦では3タテを食らい、しかもそれらすべてサヨナラ負けだったことがスタインブレナーの逆鱗に触れたのだ。

だが、理由はそれだけでないところが、マーティンなのだ。5月初め、テキサス遠征の際にストリップバーで喧嘩して顔面を負傷。直後の試合では、審判に砂をかけ退場、6月にも同じことをやらかして、3試合の出場停止処分を科せらるなどトラブル続きだった。
「ここでは予期できないことを予期しなくてはならない。それでも、やっぱり少しは驚いた」
と、感想を述べたのは、主砲のドン・マッティングリー。タブロイド紙は、この当時の球団を“Bronx Zoo(ブロンクス動物園)”などと揶揄したものだ。

青年時代はボクサーを目指していただけあって、そのパンチ力は並外れており、その鉄拳で引き起こしたバーやクラブなどでの乱闘騒ぎは数限りがない。ツインズ監督時代には主力投手のボズウェルにかなり激しい鉄拳制裁を加えたり、マシュマロを売りにきたセールスマンを叩きのめしたり、地元ニューヨークの記者の前歯をへし折るなど、「ケンカ屋」といわれるゆえんだ。

そのツインズ時代のこと、地区優勝をしながらもプレーオフに破れグリフィス・オーナーとケンカ別れ。それでも、
「どこへ行くのか、ビリー・ザ・キッド、帰っておくれよ」
と、そんな本拠地であるセントポール、ミネアポリス両市で、あるフォークソング歌手が酒場で歌ったという。ガソリンスタンドの店頭には、「復帰させよ」と、ステッカーが並んだという。マーチンはツインズだけじゃなく、どこのどんなチームでもおおよそ観衆みんなに絶大な人気があった。

監督というものチームを優勝させればOKといわけにはいかない。観客動員力あってこその監督なのだ。ヤンキースでは、1978年7月24日に解任され、ボブ・レモンが監督に就任。場内放送での発表時、観客からすさまじいブーイングがおこった。
「ビリーは、永久にナンバー1だぞ!」
そして、放送は続けて、
「ボブは、1980年にはゼネラル・マネージャーに就任する予定です」
またもや、前よりもひどく、
「ブーッ!」
の、声がおきた。そして、
「1980年以降の監督は、背番号1の…、」
といった途端、場内は大歓声で、名前の方は聞きとれなかった。



その現役時代からマーチンは野球の戦術面で、オークス時代からの師匠であるケーシー・ステンゲル監督をはじめ、多くのコーチに教えを請うことが多く、チームメイトであり、親友のミッキー・マントルも、
「あれほど情熱的に野球を教わっていた人間は見たことがない」
といわしめるほどであったらしい。

1957年に、ニューヨークのナイトクラブ「コパカバーナ」で起こした乱闘騒ぎにより、かれが首謀者ということになり、ヤンキースを追われるような形でトレードに出され、その後カンザスシティ・アスレチックス、タイガース、インディアンズ、レッズ、ブレーブス、ツインズとなどを転々と渡り歩いて、1961年に現役を引退、スカウトに転じた。

その後はPCL所属のデンバー球団の監督になり、翌年に前述のミネソタ・ツインズでの監督昇格もお払い箱。しかし、その間にチームの看板選手だったロッド・カルー(Rod Carew; 首位打者7回、パナマ出身)を鍛え上げた。その後、デトロイト・タイガースで監督をつとめたが、ここでも幹部と衝突、またテキサス・レンジャーズでも監督をクビになりはしたが、やっと念願の古巣ヤンキースの監督をつとめることになった。1975年のことだった。この間18年、
「わたしの胸から、NYの文字が消えたことはなかった」
と、あるスポーツ記者に語った。

本名アルフォンソ・マニュエル・ペサーノ、イタリア系だ。1947年、18歳からアイダオ・フォールス球団(パイオニア・リーグ)で二塁手兼三塁手としてスタート、オークランド・オークスなどマイナーでプレーした。そのPCL時代のオークランドに在籍時、当時の監督がケーシ・ステンゲルだった。かれがヤンキース監督に抜擢されたあと、ヤンキースにもらわれていった。

1950年から二塁手としてニューヨーク・ヤンキースでプレー、重宝がられ万能選手として活躍。ミッキー・マントルやヨギ・ベラの陰に隠れる格好ではあったが、ここぞというところで打つなどの勝負強さがあり、1953年のワールドシリーズでの打率.500(24打数12安打)は今も破られていない。

ニューヨーク・ホーソーンのゲイト・オブ・ヘブン墓地にあるマーチンの墓。自身の背番号・「1」があしらわれている。スタインブレナーのはからいで、ベーブ・ルースの墓と同じ区画に建てられている。

最後に、1976年のヤンキース発行のメディア・ガイドによると、
「じつにカラフルな男であり、炎の男であり、議論好きな男である。くわえて試合を活気づけ、チームのテンポを設定させる技量では、ほかの監督に類を見ないと定評がある」
と、書かれている。