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サチェル・ペイジ伝説(2)

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MLB レジェンド

サチェル・ペイジ伝説(2)

「私は人種差別を受けているとは思わない。彼らは私のために場所を設けてくれた。それが野球殿堂のなかのどこであろうと、私は誇りに思う。毎年プレーするにあたって、私は”今年が私にとって最良の年である”といいきかせてきた。だが、今年こそは、本当に私のベスト・イヤーになった」
と、続けて、
「ジャッキーが大リーグに入るまで、私たち黒人は、そこで働くことは出来ないでいた。が、私はそれを特に苦々しく思ったことはなかった。私が白人でありさえすれば大リーグへ行けるのに…、といってくれる人たちもいたが、私自身は、つらくも何ともなかった」


さて、インディアンズはチャンピオンシップを獲得したものの、ペイジにとって残念だったのは、このワールドシリーズでの登板は第5戦の2/3回だけ、それも大差のついた負け試合の尻拭いというだけだった。全米の注目を集める試合に黒人投手を登板させることに監督・ブードローが躊躇したという説もあるが、それは定かではない。これを機に、不仲説も出たくらいだ。ペイジの死後、ブードローは弁解がましいことをいってはいたが、もはや何をいってもムダなことだった。

翌49年、やはり体力の衰えは隠しおおせず、4勝7敗に終わると、2シーズンを終えたところでチームを解雇されてしまう。50年は、大リーグでプレーせず。それでもなお、メジャー復帰をあきらめず、1951年にはセンントルイス・ブラウンズと契約。メジャー復帰を果たす。そして、1952年、なんと12勝をあげてみせた。

しかし、3勝9敗で終えた1953年のこと、ブラウンズはチームごと売却されることになり、彼はまたもチームを去ることになる。その後、2、3年のブランクを空けながら、マイナー・リーグで時々プレーしていたようだ。

それと同時に、ペイジは、私生活面、とりわけ金や女性に関しては大いに苦労した。プロとなった後で真剣な恋に落ちた相手が球団オーナーの内縁の妻だったり、1934年に結婚した最初の妻とは性格の不一致が原因で、離婚することになってしまった。巡業や、遠征が続くことに耐えられなかったようだ。反面、収入はというと、どんどん増えていったらしいが、ペイジも浪費家だったが、それ以上に2番目の妻がかなり豪快に使ってしまっていた。

とうとうペイジは50歳を過ぎて、貯金が尽きてしまい、しだいに生活に困るようになりはじめた。結局のところ、現役復帰を望むもののチャンスはなく、その知名度を生かして映画に出演したり、セミプロのチームで投げたりした。

さてこそ年金はというと、メジャーでの選手生活が短すぎたため、年金をももらうこともできなかった。このままでは、偉大な選手があまりにもかわいそうだと、見るに見かねた野球関係者たちが彼を助けようと動きはじめる。そして、考えられたのが、年金需給資格を与えるために、もう一度大リーグに復帰させるという計画だった。

そんなとき、カンザスシティ・アスレチックスの変人オーナー、フィンリーが、
『コーチで良いから、わがチームに来い』
と、誘ったのだ。ペイジも驚いたが、選手たちはもっと驚いた。59歳の新入りが入団するのだ。あのオーナーならやりかねないとも、思ったことだろう。それはトリもなおさず、ペイジにとっては数ヶ月在籍すれば、大リーグ年金が得られるからだったが、なによりも彼は投球への自信は衰えてはいなかったのだ。

意地もあった。たった一つの条件をつけた。それは選手として実戦に登板することだった。1965年、ついにその機会が訪れた。それはまた、メジャーリーグ公式戦最年長登板記録でもあった。じつのところ、これがペイジ最後の公式戦登板になったのだが…。

同年9月25日、ボストン・レッドソックスとの試合で登板し、カール・ヤストレムスキー(※01)ら現役バリバリの選手を相手に、3イニング無失点に抑えるピッチングを披露したものだ。 それはチームが彼に一度はマウンドに立ってもらおうという球団の配慮によるものだったのだが、先発のマウンドに立った彼は59歳とは思えないピッチングを見せ、観客を驚かせた。

満足すべき投球もさることながら、なにせダグアウトにお気に入りのロッキングチェアも用意され、終始ごきげんだった。ペイジがマウンドを去ると、観客から惜しみない拍手とともに、歌声がこだましたという。フィンリーはこの後、ペイジをコーチにいれて年金受給資格に届くようにしようと申し出たが、その申し出を断っている。これは、巡業団との契約の関係によるものらしい。

そんなペイジに対し、1968年にアトランタ・ブレーブスがアドバイザー兼ピッチング・スタッフとして契約し、 投手として登録して年金受給資格を取得できるようにはからった。もっとも、ペイジ自身はこれに満足していなかったようで、エキシビジョン ではあるが、2イニングを投げたという記録が残っている。当時62歳、これで大リーグでの最後の投球となった。

メジャー・リーグからは引退となったが、60歳の1966年にもマイナー・リーグで1試合だけ登板した。実働6年間の通算成績は、登板試合179、投球回476、28勝31敗、防御率3.29、奪三振288、完投7、完封4。1971年に野球殿堂入り。

28勝という成績を見ると、やや平凡な数字だが、契約した時点でおそらく42歳より上だったということ、現代のように科学的なトレーニングや食事療法が整っているわけではない。そういった条件をかんがえると、 数字以上の勝ちがあるように思われる。

ペイジは、ニグロ・リーグ時代に2500試合に登板、2000勝以上を挙げたといわれている。うち完封勝利は350以上、ノーヒット・ノーランは55試合。179km/hぐらいの速球を投げ込んでいた。さらに驚くべきは、超人的というほかないスタミナだ。ニグロ・リーグのシーズン公式戦だけでなく、シーズンオフにもギャラほしさに全米のさまざまなチームに出稼ぎに行き、多いときは1年に153試合投げていたという。

1930年代の大恐慌の時代、1934年、彼はビスマークというチームのピッチャーとして、105試合に登板して104勝をいあげたという。当時、黒人リーグの試合は場所を変えながらほとんど毎日おこなわれ、ダブルヘッダーもけっこうやったらしい。年間1000試合ぐらいはしていたのかもしれない。

が、その地域は限られていて、彼が活躍していたのはアメリカ北東部中心だったため、移動は今ほど大変ではなかったようだ。たしかに年間100勝すれば2000勝という膨大な数字も、可能な数字に思えてくるのが不思議だ。



年がら年中、常軌を逸したプレーぶりだが、どこかで野球をしていたのだが、不思議なのは、それだけ投げていても、選手生命に関わる大けがというものはなかったようだ。

とはいえ、それだけ肩を酷使すれば、その影響が出ないはずはない。30歳になる頃、彼は突然肩の痛みに襲われ、ボールを投げられなくなってしまった。が、野球が大好きな彼はコーチとして、野球に関わる道を選択をする。

ところが、ある日、ブルペンから転がってきたボールをひろって投げ返すと、肩が痛くないことに気がついた。どうやら自然に肩が治っていたようなのだ。1939年、33歳で、ふたたび投手としての現役生活を開始することになった。

とりあえず、コーチとして拾ってくれたカンザスシティ・モナクスの先発投手となった彼は、チームをニグロ・アメリカン・リーグのチャンピオンに導き、3年連続の立役者となった。

当時の彼は肩を壊す前とは投法を変え、相手のタイミングをづらす独特の投げ方をあみ出し、三振ではなく打たせてとるピッチングにより磨きをかけていた。ボークぎりぎりのその投法は、「ヘジテイション・ピッチ」と呼ばれ、大きな話題になったという。現在だと、完全にボークとなる。ペイジも大リーグでプレーするようになってから、これを禁止された。

それに、握りを工夫したり、変化球を投げるほかに、タイミングを外すなど、さまざまな工夫を凝らしていた。たんに速球を投げ込むというだけではなく、ビー・ボール(※02)やジャンプボール(※03) といった工夫を凝らした投球をした。カーブも投げている。ただ、若い頃、カーブを投げようとしたら、まだ早いといって怒られたこともあるようだ。

※01;野球殿堂入り。大打者テッド・ウイリアムの後継者。列伝コラムをまとめる候補の一人。お楽しみに。
※02;ボールのつるつるの面に指をかけて投げる。球が水平に走るということで、 スライダー系のボール。
※03;ボールの縫い目に指をかけて投げる。ボールがホップする。

続く….

参考;「史上最高の投手はだれか」佐山和夫 著、潮出版社 刊