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サチェル・ペイジ伝説(1)

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MLB レジェンド

サチェル・ペイジ(Satchel Paige) 伝説(1)

史上最高、最速の「2000勝」投手

「待っても待っても、そんな日は永久にやって来ないんだと思っていた」

1947年、ブルックリン・ドジャースがジャッキー・ロビンソンと契約して、大リーグの「カラーライン」が破られた。
「その日は、突然訪れた。だが、それは、私にではなかった」
ニグロ・リーグの伝説的な名投手・ペイジではなく、モナクスの二塁手、UCLA出身の若手のジャッキー・ロビンソンだったのだ。そんなニグロ・リーグのスターは、ペイジであって、ジョシュ・ギブソンであり、クール・パパだった。大リーグ一番乗りは、かれらスターたちのはずだった。

それでも、ペイジひとりは、1948年のシーズン途中にクリーブランド・インディアンスに入団できた。そのとき、かれはすでに42歳になっていた。大リーグ入り新人投手としては、最高年齢だった。本名は、リロイ・ロバート・ペイジ。かの速球王ボブ・フェラーが、
「サチェルの投げるボールがファストボールなら、オレが投げるボールはチェンジアップだよ」
と、発言するほどの豪速球投手だった。

年齢不詳。本人も、両親も知らない始末だった。それがまた、ペイジにまつわる神秘性を深め、伝説と名のつく必要条件でもあった。それと、かれ自身年齢のことで、あれこれいいたてられるのをイヤがっていたということもあったようだ。

その年、6勝1敗、防御率2.48をあげ、リーグ優勝に貢献。ワールド・シリーズに進出。メジャー通算成績は28勝31敗、防御率3.29だが、1952年には46歳で12勝10敗を挙げており、1952年・1953年には連続してオールスターゲームにも出場。

後1965年、カンザスシティ・アスレチックスと1試合だけの契約を結び、メジャー最後の登板を果たした。59歳だった。最年長現役投手の記録をつくったのだが、実際には、60歳を超えていたのではないかとの説もある。

1971年、二グロ・リーグ特別委員会選出により、野球殿堂入り。ただし、大リーグでの経験10年という基準を満たしていないため特別枠。1981年、正規の資格者として「黒人として」ではなく、「二グロ・リーグから初の」野球殿堂入り。1982年6月8日に死去。享年75歳。

ペイジはニグロ・リーグ時代に、約2500試合に登板、2000勝以上をあげ、そのうち完封勝利は350以上、ノーヒット・ノーランは55試合達成と破天荒な成績を残している。
「1ヶ月に、29試合投げたこともある。私個人の勝ち星は31勝どまりだったが、たしか球団が勝った104試合のすべてに登板したと思う」
が、残念なことに、ニグロ・リーグにかんしては、正確なスコアカード、記録集がない、残っていないのだ。ペイジの記録も、裏づける資料がみあたらない。

ペイジは上手、横手、下手と、どこからでも投げ分けることができ、投球練習する際にホームベース上に置いた煙草の箱の上をボールが通過するほどコントロールに優れていた。こんなエピソードがある。インディアンスと契約する前のこと、球団スカウトを前にして、
「ニグロ・リーグでの成績はご存知だと思いますが、私の技量を心配している方もいるでしょうから」
と、ピッチングを披露したものだ。

塀にゴムバンドをしばりつけ、正規の距離をとり、これを的に投げてみせたのだ。百発百中。なんど投げてもゴムバンド確実に切ったのだ。そして、当時の監督、のち野球殿堂入りのルー・ブードローのまえで、再度ピッチングを披露した。ウォーム・アップとして、オーバースロー、サイドスロー、ウンダースローと投げ分け、持てる球種をすべてみせた。ブードローがうなったのは、抜群の制球力だった。60球投げて、59球がストライクだったのだ。



1906年7月7日(役所の記載を信用すれば)、ペイジはアラバマ州モービルのスラム・サウスベイで庭師の父と内職を営む母との間に、12人兄弟の7番目として生まれた。

「サチェル」というのは、ニックネーム。町外れに鉄道の駅があり、少年時代に乗客たちの荷物運びで、仲間たちと競った。それは、両手に2つ、両脇に2つ、体にヒモをかけカバンをくくったり、つるしたりしたそうだ。1回運ぶごとに、それだけ多くチップをもらえることになるのだ。そんなかれらから「歩くサッチェル・ツリー(ショルダーバッグをぶら下げておくハンガーのこと)」といわれていた。それ以来、この名前で通したという。

年少の頃からケンカ沙汰がたえず、12歳のときに万引きでつかまり、救護院に入らされた。そこで、5年間をもすごすことになる。しかし、悪いことばかりではなく、ここ救護院でエドワード・バードの指導のもと、ピッチングスキルを身につけたのだ。

1924年に出院するや、兄・ウィルソンが所属していたセミプロチーム、モービル・タイガースに入団する。1年めにして、早くもエースとなり、この新人をめぐって争奪戦となった。スピードと、制球力ともにペイジを上まわる投手はいなかった。1926年、プロ・チーム「チャナヌガ・ブラック・ルックアウツ」に引き抜かれた。19歳のときだ。その後、数々のチームに在籍したが、そのたびに給料はズンズン上がっていった。

ある捕手は、こうもいった。
「いい投手と、すごい投手とは、似て非なるもの。いい投手のボールは捕球の前にホップするが、すごい投手にかかると、ボールは突然消えてしまう」

記録が不確かで、伝説の域を出ないが、全打者三振になりそうな試合で、なんと最後の打者が振り逃げで、28連続三振になった、ペイジはというと、その裏にわざと走者をためて無死満塁にし、しかも野手を全員ベンチへ引き上げさせて打者に勝負を挑んだなどのエピソードがある。それ以外にも、
「今から9人連続三振を取る」
と、宣言して、達成したり、野手全員をマウンドのまわりに座らせて投げるなど、ショーマンシップにも長けていた。

さて、大リーグ初登板のペイジだ。1948年、対セントルイス・ブラウンズ戦、クリーブランド市営球場での初登板となった。先発のボブ・レモン(※ 01)がKOをくらって、4-1とリードされていた場面だった。監督・ブードローがマウンド上で待っていて、ボールを渡した。なにをかをいったらしいが、さすがのかれも、そうとうあがっていて、聞こえなかったようだ。

先頭打者にいきなりヒットを打たれたものの、あとを締め、2回を無失点で切り抜けた。ペイジ初登板の戦績は、ヒット2本、奪三振1。まずまずのスタートとなった。このあと地元クリーブランドで、3試合に先発、そのうち1試合は完封勝利だった。かれの人気はすさまじく、爆発的ともいえる観客を呼び込んだ。シカゴでの試合なんぞ、あのコミスキー・パークに入りきれずに、あふれた人々が1万人以上もいたという。とりもなおさず、シーズン途中で入団して、6勝1敗。その1敗も、内野手のエラーがもとでの1−0の完封負けだった。

この年、ペイジを喜ばす出来事もあった。晴れの舞台・ワールド・シリーズ出場というぜいたくなおまけつきだったのだ。全試合が終わった地点で、ボストンと同率首位。1試合でのプレーオフで、勝ちあがったのだ。しかしながら、かれは活躍することがなかった。じつはその場があたえられなかったのだ。

チームはチャンピオンシップを獲得したが、ペイジだけには苦々しさだけが残った。というのも、監督・ブードローは、ペナントレースでは、ペイジの力を最大限活用したが、ワールド・シリーズではまったく違った起用法をおこなったのだ。

(※ 01) 野球殿堂入り。のちヤンキース監督。背番号[21]は、インディアンズの永久欠番に指定されている。

続く….

参考;「史上最高の投手はだれか」佐山和夫 著、潮出版社 刊