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「ザ・キャッチ」、ウィリー・メイズ!

mlb batters(Right)
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「ザ・キャッチ」、ウィリー・メイズ!

Willie Mays

「一番素晴らしかった守備プレーを選んでくれないか? 」
と、ウィリー・メイズは、何度もなんども訊ねられたが、そのうち思い起こすのをやめてしまった。そして、いつの間にか、
「どれがよかったか、比べたくない」
と、返事をして、
「ただ、すべて、なんとか球をつかもうとやっていただけさ」
と、つけ加えるのだ。それは、かの「ザ・キャッチ」についても同じで、
「べつに歴史をつくったわけじゃない。ただフライを捕っただけさ」
と、答えたものだ。


MLB史上にさん然と輝くスーパー・プレー、その『ザ・キャッチ』が演じられたのは、1954年の対クリーブランドとのワールド・シリーズ第1戦であり、いまだにながく語り継がれるプレーである。

2対2の同点で、インディアンズが8回表、無死一、二塁と勝ち越しのチャンスを迎え、それまで3打数3安打の左の強打者、ワーツが打席に入った。

打球は快音を残して、ポロ・スタンドの深いセンターの頭上をおそった。その打球を追って、まだ23歳のメイズが背走に、背走を重ね、フェンス前で肩越しに、およそ奇跡とも思えるキャッチ。すぐに体勢を立て直して、内野に返球、走者の進塁を阻止した。

このプレーで、勢いずいたジャイアンツは、延長10回サヨナラ勝ちをおさめ、一気にシリーズを4タテで制したものだ。

もちろん、そんな流れを呼び込んだメイズのプレーは、スポーツ週刊誌・「スポーティング・ニュース」は、野球だけでなくあらゆるスポーツを含めて、1954年の最もエキサイティングなプレーとして選出した。

しかし、そんなメイズ本人はというと、1952年、エベッツ・フィールドでのドジャース戦でのキャッチのほうが、はるかに満足感をあたえてくれたという。

ジャイアンツが1点リードしての8回。代打・モーガンが左中間に痛打をはなった。メイズはそれを追って、頭からダイヴィングして、グラブをのばし、落ちてくる球をキャッチした。が、そのとき、からだをフェンスに強くぶつけ、気を失ってしまったのだ。気がつくと、監督のドローチャーがいて、
「ボールはどこだ? つかんだのか?」
と、メイズは訊ねた。すると、
「確かにつかんだよ。審判はアウトにしたし、おまえを上向かせてグラブから球を持っていったよ」
と、答えたそうだ。そのプレーを目の当たりに見たジャッキー・ロビンソンは、守備位置に入るとき、すれちがったメイズに、
「あれはオレが見たなかで、一番すごいキャッチだった」
と、いったそうだ。

1951年~73年のあいだ、かれはジャイアンツと、メッツの名センターとしてプレーした。その22年間のメジャー生活で、3283安打(歴代11位)、660本塁打はハンク・アーロン、バリー・ボンズ、ベーブ・ルースに次ぐ歴代第4位。兵役さえなければ、ハンク・アーロンよりもさきにベーブ・ルースの最多本塁打記録を抜いただろうといわれている。

あだ名は、“セイ・ヘイ・キッド”。“コンプリート・プレーヤー”と呼ばれるにふさわしくバッティングのみならず、センターの守備は素晴らしく、ゴールド・クラブ賞は12回受賞。
「攻・走・守の3拍子そろった選手はめずらしい。かれこそはジャイアンツの宝だ」
と、名将レオ・ドローチャーはいったものだ。

1931年5月6日、アラバマ州バーミンガム郊外で生まれたメイズは、14歳のころにはすでにセミプロ・チームで大人たちにまじって、ごく自然にプレーしていたそうだ。ニグロ・リーグでは、メイズにセンターのポジションを与え、1ゲームにつき1ドル支払っていたという。メイズ、19歳のころだ。

1950年にニューヨーク・ジャイアンツと契約して、まずはマイナーに送られはしたが、打率・474、8本塁打、30打点の大活躍が認められて、翌51年にメジャーに昇格。

7番・センターでデビューするも、26打数で、ヒットは1安打のみ。しかし、その一本こそ、大投手ウォーレン・スパーンからのホームランだったのだが、これには、さすがのメイズも、
「メジャー・リーグでやっていけません。マイナー・リーグに戻してください」
と、ドローチャー監督に、泣きを入れたようだ。だが、
「オレが選んだセンターだ。おまえが打てなくてもチームは勝っているじゃないか。この後、ヒットが一本も打てなくたって、センターはおまえのポジションなんだ。気にせずに、バットを振り続けろ」
と、ドローチャー監督に叱咤され、そのカイあってか、この年127安打、打率・274、20HR、61打点で新人王を獲得。それと、いきなりヤンキースとのワールド・シリーズに出場と、幸運が続いた。



その年、ジャイアンツは13.5ゲーム差があった首位ドジャースを追い上げ、最終日にとらえた。プレーオフのすえ、ついにボビー・トムソンが9回に、さよなら3ラン・ホームランをはなって、リーグ優勝をかっさらったのだ。

メイズからちと離れるが、この劇的なホームランこそ、全米が狂喜したホームランなのだ。ボビー・トムソン、かれは決して輝かしい球歴を持った選手なんかじゃない。しかし、メジャー・リーグが続く限り、かれの名前は消え去ることなく語り継がれていくだろう。このたった1本のホームランによってである。

1951年10月3日、肌寒く、すでに暗くなったポロ・グラウンド。観衆は、35000人あまりと、多くはなかった。しかし、奇跡が起きたとき、テレビ、ラジオの前の何百万のファンはまるで自分が球場にいたと同じくらい大興奮したはずだ。

史上類のない大激戦が、この年ブルックリン・ドジャースとの首位争いが続いていた。シーズンが終わっても96勝58敗で同率首位、プレーオフでも1勝1敗。その第3戦だった。7回、トムソンの犠飛で1−1に追いついたのも束の間、8回三塁手・トムソンのまずい守備もあり、ドジャースは決定的な3点をあげ、4−1と大きく引き離した。

その9回裏、ジャイアンツはニューカム(Don Newcombe;メジャー初の黒人投手)を攻めて連続安打で一,二塁としたが、四番・アービンがポップフライをあげ、一死。続くロックマンが左へ二塁打をかっとばし、二塁走者を返した。観客は、いっとき足を止めた。ニューカムはマウンドを降り、ブランカに変わった。

名誉挽回とばかりに、6番・トムソンが打席に入った。一球目は、見送りのストライク。さて、第二球目、胸のあたりインコースよりのボールを、フルスイングした。白球はレフトスタンドに向かって低いライナーで一直線。スタンドのファンは息を呑み、トムソンはというと誰よりも長く息を止め、打球を見やった。ボールがスコアボード下のスタンドに吸い込まれるのを見届けると、トムソンはゆっくりと走りはじめた。

死闘ともいえる157試合目に、こんな劇的な終幕が訪れるとは予想だにしなかっただろう。それも、たった一人のたった一発で、ペナントが決まったしまったのだ。ジャイアンツの全選手はもちろん、観衆までもが一斉にスタンドに飛び込み、流れ込んでいった。まさに永久に忘れられない感激のシーンだった。ちなみに、メイズは「7番・中堅」で先発も、3−0の音無しだった。

しかし、ワールド・シリーズはジョー・ディマジオらの活躍でヤンキースが制したが、やはり新人だったミッキー・マントル同様、メイズも期待されたほどの活躍はできなかった。また残念なことに、”ヤンキー・クリッパー”ことディマジオは、
「わたしは、もうジョー・ディマジオではない」
という言葉を残して引退した。

その翌年、ドローチャー監督は、
「メイズがいれば、優勝。いなければ、Bクラス」
と、予想したものだ。そのメイズが兵役についたのだ。そして結果はというと、やっぱりというか、ドローチャーのいうとおり、ジャイアンツはさえない成績しか残せなかった。

しかし、兵役から戻った54年、メイズは4番にすわり、初の首位打者のタイトルを獲得した。それに、その年、くしくもインディアンズとのワールドシリーズを戦うことになったのだ。

この年のインディアンズは、リーグ新記録となる111勝を挙げて、ヤンキースの6連覇を阻んで、リーグ優勝を果たした。そのインディアンズには火の玉投手ことボブ・フェラーをはじめとして、ボブ・レモン、マイク・ガルシアなどの恐るべき強力投手陣を抱えていて、戦前の大方の予想はインディアンズ優勢であった。

しかし、第1戦のメイズのスーパー・キャッチと、10回ウラの代打ダスティ・ローズの劇的なサヨナラ3ラン・ホームランで、インディアンズを蹴落とし、ジャイアンツは4タテでワールド・シリーズを制したのだ。

ちなみに、ボブ・フェラーはシーズン13勝3敗の素晴らしい成績をあげながら、登板のチャンスがなかった。しかも、それがフェラーの最初で最後のワールド・シリーズでもあったのは、なんとも皮肉だった。

MLBは、この時、球史に残る選手を数多く輩出して、まさしく黄金時代を迎えていた。

参考図書;『大リーグ黄金の30年』(ジョゼフ・ライクラー著 週刊ベースボール編集部訳)