■■お気に入り名選手; ☆スタン・ミュージアル(その2)☆
Stan “The Man” Musial
翌1940年春、フロリダのデイトナ・ピーチに参加。そこで、スタンにとっては、生涯の大恩人にあたる元ホワイトソックスの名投手ディック・カー監督に出会う。
ここでも、投手としてスター投手となるも、打撃にも非凡な才能をみせた。カー監督は、しばしば外野手として起用していた。いうところの二刀流だ。しかし、順調よくすべりだした大リーグへの道をも一瞬閉ざされる出来事が、スタンの身に起こったのだ。
いつものように、投手として投げないときはレフトを守っていた時に、事件は起こった。打球に突進して、左肩を痛打したのだ。これは、投手・スタンの生命を断ち切る悲劇だった。
2日後、相手は強豪チーム。スタンは登板するも、激痛がはしるもなんとか投げきって、勝利投手になった。が、数日後の登板は痛打を浴び、早々と降板。激痛の限界をはるかに超えていたのだ。
スタンは、クビになったら…と、絶望の淵に落ち込んだ。というのも、早くして結婚していた妻・リリアンは妊娠していたのだ。郷里・ドノーラの雑貨商の娘だった。
「もう帰るしかない」
スタンは思い詰めて、監督に相談をした。すると、意外な言葉が返ってきた。
「おれのいうとおりにしてみろよ」
といって、投手を廃業させて、外野手一本にしぼって練習させた。物心ともども面倒を見ていたディック・カー監督のアドバイスのもと、打撃に専念。スタンに明るさが戻った。後年、スタンは恩返しとして、カーに豪勢な家をプレゼントする。
翌1941年、投手失格で失意のどん底にあった先年と違って、一転飛躍の年となった。打者として好成績を残したスタンは、ジョージア州コロンブスに参加。ここで、ひと悶着が起こる。誤った情報で、投手として登録されていたのだ。
しかし、当時のカージナルス首脳陣にあの「ミスター・リッキー」こと、ブランチ・リッキーがいた。セントルイスのおちこぼれ球団を天才的なアイデアと、行動力で数々の「ファーム球団」を囲い込み、次々に契約した選手を、その自前のファーム球団へと送り込み、王国の建設がはじまっていたのだ。
スタンは、その大カージナルスのファームから見出された選手である。スタンは投手陣に混じって練習をしていたが、ひとたび打席に入るや、快打連発。
「こりゃ投手じゃない、打者だ」
リッキーが、かれを打者として、見初めたのだ。後、リッキーはドジャースの会長になり、ジャッキー・ロビンソンを、黒人初の大リーグ入団をお膳立てしたりもしたのはご存知の通り。
持ち前の打撃を買われ、ミズーリ州スプリング・フィールドに急きょ移籍。外野手・スタンはシーズン当初から、爆発。そのシーズン半ば、3A・ロチェスターに移籍。それでも、スタンの打撃は止まることを知らない。その後半、ついに念願のメジャー・リーグへと上り詰めた。そう、カージナルスのユニフォームに袖を通したのだ。
華々しいデビューだった。9月18日昇格後、すぐ出番はやってきた。ボストン・ブレーブスとのダブル・ヘッダーの二試合目に登場。4打数2安打。2つの打点つき。見事な走塁までも見せた。まだまだ、カージナルスには、足のチームの伝統が残っていたのだ。結果、12ゲームに出場し、なんと.426の高打率を記録。
この年、カージナルスは、リーグ優勝はならなかった。しかし、スタン・ミュージアルという天才打者を手に入れた。翌年、この新星は、チームに久方ぶりのリーグ優勝をもたらし、あのマグロー率いるニューヨーク・ジャイアンツの前人未踏の大記録であるリーグ3連覇をなしとげる原動力となる。
1944年、カージナルスは4連覇中だったが、この年2位に落ち、カブスに優勝をさらわれた。というのも、主砲・ミュージアルが兵役につき不在だったことがひびいたのだ。
スタンは、卓抜なバッティングで知られ、じつに好機に強い打者だった。しかし、かれはこつこつとヒットを量産するかたわら、いつのまにかホームランをも量産しはじめた。
入団後5年間は、ホームランは19本を越えることがなかった。それが、1946年になると、一気に39本とかれ自身の最高記録をつくった。翌年も、36本と、大リーグの歴代ホームラン王の仲間入りをはたした。
1954年、対ニューヨーク・ジャイアンツ戦、ダブルヘッダーでのことだ。第一試合、かれは、同点で迎えた8回、3ランを放って、試合を決定づけた。この日、3本目となるホームランだった。勢いは止まらない。第二試合、試合には負けたが、ここでも2本のホームランをかっ飛ばした。
ダブルヘッダーでの、5本塁打は大リーグ新記録であり、2試合連続のホームラン数としては、大リーグタイ記録だった。そして、10回打席に立ち、本塁打5本、シングルヒット1本、8打点をあげ、21塁打を記録した。
もう一つ、1シーズン4度目の5打数5安打という記録もある。あのタイ・カップの不滅の記録に並んだのだ。スタンはボストンにいて、寒くて風の強い日だったと、かれは思い起こす。
3日前、2度、3度と守りでファインプレーをしたりして活躍もしたが、その最後のプレーとき、芝生につんのめって、利き腕の方の手首をくじいた。その翌日、その右手にデッドボールをくらった。もうほとんどバットを握れないくらいズキズキと痛んだ。
トレーナーが用意したテープを、スイングの邪魔になるからといって引きちぎり、相手投手に向かっていった。しかし、相手投手は、難敵ウォーレン・スパーンだ。右へ引っ張ることなんて無理だ、全打席左への流し打ちしようと決めた。第1打席、左へのシングルヒット。第2打席は、レフトへの2塁打。第3打席は、大きく振って、ライトへのホームラン。右手首は締めつけられるように、痛い。スタンは、記録を意識していた。
「今やらねば…」
永遠にチャンスは逃げるとおもっていた。
第4打席、三遊間を破った。手首は、まるで日が燃えさかるように痛い。第5打席、相手はノーコン投手。四球になるかもしれないが、とにかく打ってやろうと決めた。思い切って、ミュージアルは打つと、鋭いゴロがライト方向へ飛び、内野を抜けた。
あまりのことで、信じられない内容だった。それはというのも、全打席初球狙いだったのだ。手首が痛くて、たった一度のスイングでもムダにしたくはなかったのだ。1948年9月22日、対ボストン・ブレーブス戦でのことだった。この年、ボストンはこの日の負けで、残念なことに優勝が3日間延びたのだ。
さて、そんなスタンにも引退の時期が迫っていた。オール・スターゲームでのこと。期待に背を受け、代打で登場も、ライトへのライナーに終わってしまったのだ。そう、もうファンへの期待にそえられない、とおもった瞬間じゃなかったか。ディヴァイン総支配人に、辞意を伝えた。
「ビング、今年がそれだよ」
盛夏のころ、この年の恒例のオーナー主催のパーティのときだった。
そして、1963年9月29日の対レッズ戦が、そうだった。引退試合当日、ある記者が、
「今日は、安打が出るまでプレーするつもりなかね? 」
「うん、そうだ」
「安打が出たら、通算何本目かの安打か知っているかい? 」
「いや、知らない」
「3628本目だ。2本出れば、3629本目だ」
スタンは余裕綽々で、こう答えたものだ。
「それじゃ3本打って、3630本にして辞めるか。切りのいい数字だものね」
結局のところ、2安打だから、3629本止まりになってしまった。
かれスタン・ミュージアルは、大きな波乱もなく文字通り22年間を走り続けた。その息の長さこそ、選手の鏡であろう。
その後、何度か監督に推されたが、スタンはかたくなに拒んだ。逆に、シェーンディーンストら後輩に監督の座を任せてしまった。そればかりか一度手を染めた球団総支配人の座をも逃げるように辞退し、副会長とやらの閑職に甘んじていた。ベーブ・ルースは監督になりたかったが、結局なれなかった。ライヴァルだったテッド・ウイリアムズは短期間ながら監督におさまったが、スタンは違った。ただ生き方の違いだけでは、片付けるのは早計だろう。
■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)