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大いなる田舎もん、ウォールター・ジョンソン(2)

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大いなる田舎もん、ウォールター・ジョンソン(2)

Walter “Big Train” Johnson

紳士といえばいいのか、田舎根性が抜け切れていないというのか、そんなジョンソンだったが、チームメイトたちを唖然とさせた出来事があった。あるとき、ある人が、
「世のなかで、好きなものは? 」
と訊ねると、生真面目に、
「一に、妻のヘイゼル。二に、野球。三に、狩猟」
と答えたそうな。じつは、そのヘイゼル嬢との親密な交際が発覚したときだ。それも、ブロンド美人のかの女は、ネバダ州出身のジョンソン投手の大ファンであった上院議員の娘さんだったのだ。

タバコはやらない、酒は飲まない。カードもやらない。ましてや他人の悪口なんてとんでもない。えらぶったところもなく、クソがつくほど超まじめ人間だった。

ちょいと面白いハナシがある。もちろん野球がらみだ。1908年の9月、対ハイランダース戦(後年のヤンキース)、Wヘッダーを含む4連戦でのことだ。カンティロン監督は初日4日に、ジョンソンを投げさせた。散発の6安打、完封。その翌日、ウォーミング・アップをしているところに、監督がやってきて、
「ウォルター、調子はどうだ? 」
と聞かれ、
「悪くないですね」
と答えると、
「どうだい、もう一度投げてくれんかね」
ジョンソンは昨日にもまして冴え、4安打で、またも完封。

よく日の日曜日は、安息日で野球はお休み。その中一日をおいて、3日目。監督は、またしてもジョンソンのところにやってきて、
「どうにもうちの投手は頼りにならなくてねえ、ウォルター、調子はどうだい? 」
と訊ねると、
「いつも通りです。悪くないですよ」
と答えた。すると、監督は、
「そうか、ご苦労だが、もう一度投げてくれんかね? 」
なんと4日間で三度目の登板だ。自チームはおろか、相手チームもあきれた。観客もうなった。とうぜん疲れはあった。そんなジョンソンに追い討ちをかけるように、利き腕に死球をくらった。しかし、彼は痛みをこらえ、力投。

ところが、終盤近くになると、次々と仲間たちが、
「ガンバレよ」
と声をかけては、励ましにやってきた。ジョンソンにはなぜ急に仲間たちが激励にくるのか、皆目わからなかった。そして、ついにこの試合も終わってみれば、2安打に抑え込み、3連続のシャットアウトをなしとげた。

そして、この日はあいにくなことに、Wヘッダーだった。そこに、またしても、監督がやってきて、
「第2試合も出て、シャットアウトをやると、4日間4連続シャットアウトになるんだが、おい、ウォルター、調子は…? 」
と、監督の言葉なかばで、ジョンソンはその場を離れていた。後、かれはこう回想したものだ。
「この3連続完封のときが、一番興奮した」
こんな記録は、もうとうていMLBでは破られない記録となるであろう。さて、お次は、
「一生を通じて、もっとも大いなるゲームであった」
と、ジョンソンが振り返った悲願のワールド・シリーズ、ひのき舞台でのハナシだ。



そう、あの小石がもたらした勝利だ。

ジョンソン初のワールド・シリーズ出場ということで、ワシントン市民だけじゃなく、全米注目の的となった。そう、このワールド・シリーズは、ひとりジョンソンにだけ向けられていたのだ。

ジョンソン、大不調にもかかわらず、打線が奮起して3勝3敗。決戦は、ワシントン・グリフィス球場。クーリッジ大統領夫妻も臨席した。

じつのところ、この注目の第7戦、”ボーイ・ワンダー”ともいわれた青年監督、バッキー・ハリスの作戦が功を接した試合ともいえる。

ジャイアンツの大打者、まだ新人のころだったが、そのビル・テリーを意図的にゲームからはずしたのだ。テリーは右投手から、それまでの試合、5割の打率を誇っていた。マグローは、相手投手が右投手のとき、このシリーズ中だが、テリーを使っていた。

ハリスは、右投手としてスタメンを発表したが、2人だけに投げさせて、さっさと左投手にスイッチしたのだ。そして、目論見どおり、テリーを追いやってしまった。にもかかわらず、敵もさるもの、マグロー・ジャイアンツのやみくもの抵抗がつづいた。

8回を終わって、3-3の同点。ここで、ハリス監督は、9回から、ジョンソンをリリーフに起用した。それまで、2試合先発で投げるも、負け投手となっていた。18年目になって、やっとつかんだワールド・シリーズでのていたらく。傷心のジョンソンは、ベンチで試合をながめ、まさかもう一度出番があるとは思ってもいなかった。

そんなジョンソンが、マウンドにあがったのだ。ファンは大興奮して、ジョンソン・コールがおこった。ハリス監督は、ボールをジョンソンにたくし、
「あなたは、ぼくらの最上の投手だ。今日まで勝つも負けるも、あなたとあった」
と、全ナインの気持ちを伝えた。ジョンソンはといえば、押し黙り、ただ歯を食いしばって、手渡されたボールを見つめたままだった。

本調子でないかれは、それでも残る力を振りしぼり、打たれながらも、なんとか0点で切り抜けた。そして、ついに延長12回ウラに入った。マディ・ルールが二塁打を放ち、次打者のなんでもないゴロが、まさか幸運を呼ぶこむとはだれも予想さえつかなかった。

その打球が小石にあたって、三塁手の頭上を越えている間に、ルールがホームを踏んだ。待ちに待った決勝点が、セネターズに入ったのだ。
「わたしは、とてもほんとうとは思われないほど幸福だった」
と、ルールが三塁をまわってホームに駆け込む姿を見ながら、ジョンソンは涙をぬぐっていたという。それでも、ジョンソン狂想曲に、終わりはない。その日から、アメリカ中から、お祝いの手紙が大量に舞い込んでくるようになった。奥さんは、喜びをかみしめ、せっせと返事を出したそうだ。

1927年、39歳で引退。自チームの監督をつとめ、のちクリーブランド・インディアンズの監督もひきうけもした。監督を辞めたその年、野球殿堂が設立され、ジョンソンは、最初の5人のなかの一人に選ばれた。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)