大いなる田舎もん、ウォールター・ジョンソン(1)
Walter “Big Train” Johnson
「見えないのに、打てるワケがないじゃないか」
と、2ストライクでバッター・ボックスを引き下がった打者がいた。あのタイ・カップでさえも、おおいに面食らったらしい。なんとバント・ヒットを狙いにいったのだ。後年、
「薄暗い球場でのあの球ほど打ちにくい球はなかった」
と、いい続けたぐらいだ。
1910年~1920年代にかけて、今のわれわれから見れば、とうてい人間ワザとは思えない、想像を絶する戦績をあげたスーパー投手がいた。それは、およそ人というより、神とみまがうほどの卓越したものだった。
史上最低のチームに21年間過ごしはしたものの、アメリカン・リーグの投手記録を総ナメにしたその投手は、それまでの大リーグの歴史のなかでも最も速い球を投げ、それゆえ、
「ビッグ・トレイン」
というあだ名を頂戴した。当時の人たちにとっては、イメージのなかで一番早かったのは汽車だったのだ。
ウォルター・ジョンソン(Walter Johnson)が、その人だ。独特の投球モーションから繰り出す球は、まるで暗闇から迫りくる魔球そのものに見えたものだったらしい。
戦績を紹介するにも、ちょいと困ってしまう。生涯勝利数416勝(279敗)からはじめる? サイ・ヤングにつぐ歴代2位の勝ち星だ。また、3508奪三振から? 1983年、ノーラン・ライアンに越されたとはいえ、奪三振記録は大リーグ記録だった。
それとも、通算531完投、113完封はどうだ? もう、ただただお見事というほかない。そんななかでも、56イニング連続無失点記録は、1966年ドジャースのドライスデールに破られるまで、大リーグ記録だった(後、”ブルドッグ”こと、ハーシュハイザーが、59イニング無失点の記録をつくった)。
1913年4月10日の開幕戦から、それははじまった。1回に1点を失ったが、自責点はなかった。そして、以後無失点で、勝利をあげる。途切れたのは、セントルイス戦の5月14日だった。ついでに、無傷の16連勝などとてつもない記録は、どうだ? ちょいとだけ書き出しただけでも、この記録すべて、ジョンソン一人が成し遂げたものだ。
14回もの開幕投手をつとめ、うち完封勝ちは7回という快記録をも持つ。じつにその7回目の完封勝ちは、なんと15回延長をものにして、1-0という僅差で勝ったのだ。これぞ、ジョンソンの真骨頂なのである。
「アイダホに、すごい投手がいる」
と、セネターズ監督・カンティロンのもとに、旧知の酒のセールスマンから一報がはいった。すぐに、故障中のブランクンシップ捕手に連絡を取った。カンザス州ウィチタにいたかれは、外野手獲得のため、派遣されていたのだ。早速、ジョンソンの投げる試合を観戦するや、延長12回、エラーで0-1で負けたものの、その投球に一目でゾッコン。
「契約金100ドル、今シーズン残りに月350ドル」
という条件を示した。その当時、1907年、17歳の少年に支払われる給料としては、破格だった。それだのに、ジョンソンはというと、
「ワシントンまで行く汽車賃はどうなる? 」
とか、
「失敗したら、帰りの汽車賃はくれるのか? 」
というような質問ばかりをしたそうな。なんともほほえましい田舎モン丸出しのジョンソンだったらしい。後年になっても、そんな純情一途の田舎モン気質は、一向に変わらなかったという。
1887年、カンザス州フンボルトの農家に生まれたジョンソンは、一家ともどもカリフォルニアに急きょ移動した。油田採掘で大金持ちになれると聞いたからだ。13歳のときだ。その補給係として働く両親の手伝いをしながら、ジョンソンは捕手として野球をはじめた。17才のころ、電話会社に勤務し、電柱をたてる穴を掘るかたわらで、セミ・プロチームで野球を続けていた。
<script async src=”https://pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js?client=ca-pub-6803763655575286″
crossorigin=”anonymous”></script>
<ins class=”adsbygoogle”
style=”display:block; text-align:center;”
data-ad-layout=”in-article”
data-ad-format=”fluid”
data-ad-client=”ca-pub-6803763655575286″
data-ad-slot=”3359704664″></ins>
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script>
デビュー戦は、カップのいるタイガースだった。試合には負けたものの、ヤンヤの喝采を浴び、評判は大変なものだった。あの独特の投球モーションから繰り出される速球は、ウエイト・ホイト投手によると、
「グルフィス球場のマウンドは低かった。ジョンソンがサイド・アームから投げてくるものだから、まるで穴から球が飛んでくるようだった」
ってな具合だ。打者と正対して、顔を縦断しながら、球をあげていき、この手を真横に遠く払う。手を体の後ろに引くのではないので、球の握りは丸見え。そして、サイド・アームで掃くようにして球をリリースする。
その1907年、12試合に先発して、5勝9敗、防御率1.88。もうすでに弱小チームの悲しさを味わっていたのだ。
年代順に主要な投手成績を書き出してみると、あらためてジョンソンのケタはずれの能力におどろいてしまう。4年目(1910年)、25勝17敗、防御率;1.36、リーグ最多の奪三振;313の成績を残し、以後、1919年まで10年連続の20勝以上。
その1912年には、33勝。防御率、奪三振ともに、リーグトップ。おどろくべきことにチーム成績も、リーグ2位に躍進。1913年には、36勝を飾り、初の投手三冠、およびチャルマーズ賞(MVP)。4年連続のリーグ最多勝利。この12年~18年のあいだ、リーグ最多勝。その18年、2度目の投手三冠。19年、防御率、奪三振ともにリーグトップ。1920年、20勝がとぎれたのには、ワケがある。ボールの規格が変わって、8勝10敗、防御率も3.13に落ち込む原因となった。
翌年のこと、突如悲劇に見舞われる。父親、つづいて最愛の長女の死がジョンソンを打ちのめし、現役引退を真剣に考えはじめたのだ。しかし、かれは見果てぬ夢であるワールド・シリーズへの出場と、ファンのあまりにも強い懇願で、ふたたび野球に打ち込んだのだ。
参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)