MLB・史上最強打者! ☆テッド・ウイリアムズ(2)☆
Ted “The Kid” Williams
リーディング・ヒッター、6回。その終身打率.344の記録は、当代随一の高打率だ。三冠王、2回、アメリカン・リーグMVP、2回と、燦然と輝く記録を、ウイリアムズは残した。
それと、最後の4割打者でもある。1941年に記録した打率.406が、それだ。その9月28日、シーズン最終日であり、フィラデルフィアとのダブルヘッダーをおこなうことになっていた。そのときまで、ウイリアムズの打率は、ちょうど4割。第一試合の開始前、監督のジョー・クローニンが、
「テッド、どうするかね? 」
と、ウイリアムズのところにやってきて、こうたずねた。むろん、試合に出るか、休むかだ。
「やりますよ。卑怯なことはしたくないからね」
と、躊躇なく答えた。
1打席目、一、二塁間をライナーで破った。最初の打席で、あの名物球審のビル・マゴワンがホームプレートを掃きながら、「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」
といったというハナシは、有名だ。
2打席目は、ライト場外を飛び越えるホームラン。3打席目は、センター前にはじかえし、4打席目は一塁手の頭上を越えた。なんと、4打席連続安打をかっとばしたのだ。第2試合は、ベンチで休んでいても良かったのだが、ウイリアムズはでた。そして、結果はといえば、痛烈な二塁打と、シングル・ヒットの計2本をはなった。そして、打率は4割6厘まではね上がったのだ。
さて、そんなウイリアムズの、もう一つの「if」は、兵役期間。
毎度のごとく、ボストンの記者連中はかしましい。
「兵役逃れをやっている」
とか、
「優遇されている」
とかなんとか、太平洋戦争のさなか、連日責め立てる。たまらず、ウイリアムズは志願する。結局のところ、ウイリアムズはほかの有力選手たちよりもずっと長く、それも2度までの応召、およそ5年間もの兵役についた。戦闘機のパイロットととして、飛行訓練のためアメリカ、および朝鮮の空を飛んだ。兵役の後遺症からか、聴力には、一生悩まされ続けたようだ。
1946年7月、その復帰後も、ブランクを感じさせず、打率.342、38HR、123打点と、打撃各部門でリーグ2位につけ、初のMVPを受賞。オールスター・ゲームでも、特大のホームランを放つなど、その存在感を存分にアピールしたものだ。そして、ついに、この年、インディアンスを破り、リーグ優勝を果たし、初のワールド・シリーズ出場の名誉を手にしたのだ。しかし、3勝4敗で、世界一を逃してしまう。
相手は、ナ・リーグ初のプレー・オフを制したカージナルスだった。7試合目の、ハリー・ウォーカーのシングル・ヒットで、一塁走者だったエノス・スローターが、本塁まで駆け抜けた有名な試合だ。
ウイリアムズは、シリーズで打率.200に終わり、カージナルスの雄スタン・ミュージアルも、.222と、ともに本来の力は発揮できなかった。ただ、ウイリアムズがワールド・シリーズの地を踏んだのは、この時が最初で最後、大きな悔いを残すこととなってしまった。
そんななか、こんどは朝鮮戦争が勃発。ウィリアムズは、またも徴兵され、海兵隊に加わった。こんどは実際に戦闘機に乗って、39回も出撃、ぎりぎりのところで生還したこともあったという。野球選手としての素晴らしい動体視力を持っているために、爆撃機のパイロットとして活躍。ところが、パイロット不足ということから、何度も爆撃を繰り返させるウイリアムズにとっては、非常に過酷なものであった。
1953年、自戦闘機の故障で、耳をやられ、送還。そのまま除隊。兵役から戻ってきたウィリアムズは、
「アメリカのヒーロー」
として迎えられた。35歳で、ふたたび復帰したのだ。1957年に、39歳で記録した打率.388は、メジャー・リーグ史上最年長の首位打者となった。それでも、やはりMVPに選ばれることもなかった。ただし、兵役から戻ってきた46年と、三冠王になれなかった49年にMVPには輝いている。
いかんともしがたい状況だったとはいえ、こと野球に関する限り、この期間は、ウイリアムズにとって最盛期に当たっていただけに、なんとも惜しい。生涯ホームラン記録は、521本。ベーブ・ルースの持つ大リーグ記録を、ハンク・アーロンよりも先にクリアしていただろう。
1966年に、アメリカ野球殿堂入り。背番号「9」は、レッドソックスの永久欠番となっている。
■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)