ただ今本家・WOW! とらまる王国からMLB選手列伝を引っ越し中です

堕ちた打撃王、ピート・ローズ

mlb batters(Left)
スポンサーリンク

堕ちた打撃王、ピート・ローズ(※01)

「背番号14」、最多安打記録保持者

野球賭博で永久追放、イチローへの暴言連発、そしてコルクバットの使用疑惑…、どれほど汚辱にまみれようとも、それでもピート・ローズは偉大だった。(※02)

レッズ監督時代の1989年に、野球賭博への関与が発覚。ギャンブルに熱中し、自分のチームの試合に賭けていたと、証言する者が現れた。ローズ本人は、
「賭博なんてしていない、何なら賭けてもいいぞ」
と、当初は笑い飛ばしていたが、コミッショナー事務局の調査によって、レッズを含む大リーグの公式戦の勝敗を賭けの対象にしていたことが明白となり、コミッショナーであるバート・ジアマッティは、永久追放処分を科した。その時点では罪を認めてはいなかったが、のちに、
「毎試合レッズの試合に賭けていた」
と、告白している。それに、90年には脱税で5ヵ月間刑務所入りするなど、かつてのヒーローは落ちるところまで落ちた。MLB史上最多試合出場(3562試合)と、最多安打(4256安打)の記録を持つピート・ローズ。永久追放処分を受けているため、野球殿堂入りがかなわず、レッズはローズの背番号・14番を永久欠番にすることも、球場でのセレモニーに招待することもできない。

しかしながら、2015年には特例許可が下りたことから、ローズはシンシナティで開催されたオールスターゲームのセレモニーに出席している。2016年時点での復帰はかなわなかったにもかかわらず、レッズでは同年に球団殿堂入りを認め、背番号「14」を永久欠番に指定した。

ローズは、生粋のシンシナティっ子だ。同市の高校でプレーし、リージョン野球のチームでもプレー。たまたま親類の一人が、レッズのクラブハウス係だった。かれの紹介で、18歳で同球団のファームに入団した。

1962年、マコン球団で二塁手としてプレーし、打率3割3分をあげ、翌年のフロリダ・タンパでの特別冬期キャンプに参加を許された。A級球団から、いきなり大リーグの練習に参加させられたのだ。ローズ、喜ぶまいことか。目立ちたい、フレッド・ハッチンソン監督の目にとまりたいと思った。

全力疾走、これが考えた末の結論だった。四球になっても、すっ飛んでいった。愛称は、チャーリー・ハッスル(Charlie Hustle)。対ヤンキースのオープン戦での初打席は四球だったが、ローズは一塁まで全力疾走した。当時、連続優勝を続けていたヤンキースのダッグアウトには、ホワイティ・フォードが座っており、見たこともない新人が四球で一塁へ全力疾走するのを見て大受けし、
「いいぞ! チャーリー・ハッスル(ハッスル坊や)」
と、叫んでからかった。その際、たまたま居合わせた数人の新聞記者がその揶揄を耳にし、翌日の新聞にチャーリー・ハッスルの名前を使ったため、ローズの愛称となった。

先輩の故障から、チャンスをつかんだ。スプリングトレーニングでのこと、欠員が出たことで、ローズがその穴埋めに昇格した。しかしながら、ハッチンソン監督はガッツは買ったけれども、総合点ではまだまだその先輩のほうが上だとみていたのだ。ローズを育ててみたい気がしないでもなかったが…、残念だが、パドレスにトレードしようと、考えていたそうな。

その先輩というのは、あの「ブレイザー」として知られるドン・ブラッシングゲームだ。大リーグじこみの「シンキング・ベースボール」とやらを日本に持ち込み、皮肉にもかの「ID野球」の神様あつかいされていたのだ。しかしながら、阪神ファンとしては、決して忘れられない名前だ。現岡田監督の新人のとき、鼻から使う気もなく、訳のわからない大リーグの規範とやらを持ち出して、出場させなかった監督として知られている。

やむをえずローズを残し、エキシビション・ゲームにもつかった。が、最初の1週間で19打席2安打と、スタートは目立ったものじゃなかった。ブラッシングゲームも復帰したが、もう一つパッとしない。仕方ないので、ローズをまた二塁手に戻した。2ヶ月たつと、ハッチンソン監督の見方も変わった。というのも、選球眼はいい、走塁もうまい、単打ばかりだが、打つと突進する。
「これはリードオフ・マン向きかもしれない」
と、気づいて早速実行。それからはローズははつらつとプレーし、塁上を駆けまわった。
「才能だけじゃ、メジャーに上がれなかった。ハッスルプレーこそが俺をメジャーリーガーにして、そこにとどまらせた。それ以外のプレースタイルを、俺は知らなかった」
現役生活は24年と長く、レッズでは1978年までの16年間と、晩年の3年をプレーした。

ローズは現役中、セミプロのフットボール選手だった父親の、
「グラウンドでは100%ではなく120%の力を出さなくてはいけない」
という教えを忘れなかったという。チーム事情に応じて、さまざまなポジションをこなす器用さ。走塁では、プリンス・カットの長髪をなびかせ、本塁のクロスプレーでの捕手への強烈な体当たりや、とくに闘志溢れる、まさしく飛んでいるヘッドスライディングは、現役時代のローズの代名詞だった。派手なプレイが目立つ一方で、ケガをほとんどせず、その長い現役生活で故障者リスト入りしたのはわずか2回である。

1年目から157試合に出場し、170安打、打率.273で、新人王を獲得。グラウンド上でつねに全力でプレーするローズは地元ファンの人気も高く、その後の1968年と1969年に2年連続で首位打者を獲得するなどして、チームの顔として定着した。

むろん、MLBを代表するスイッチヒッターの1人でもあった。身体を大きく屈めるクラウチング・スタイルが特徴で、左右にラインドライブを打ち分けた。長打力こそなかったものの、ボールを真芯で捕らえるミート力に長け、長年にわたって安打を量産していった。足もさほど速くはなかったが、積極的な走塁で二塁打、三塁打を狙った(通算二塁打は、MLB歴代2位)。

ローズとともに、レッズの快進撃がはじまった。1970年にスパーキー・アンダーソンがパドレスのコーチからレッズの監督に就任すると、記者団から、
「スパーキー、フー? 」
と、聞かれたほど。意外や、その活躍には目を見張るものだった。同年にリーグ優勝を果たし、1975年、1976年にはワールドシリーズを優勝する。1970年から1978年に掛けて地区優勝6回、リーグ優勝4回、ワールドシリーズ優勝2回を果たした。

その間、ローズをはじめとする後の球史に名を残す名選手をそろえ、1970年代のMLBを席巻したレッズは「ビッグレッドマシン」と呼ばれ、絶大な人気を誇った。ローズも、主将・1番打者としてレッズを牽引。1973年には、3度目の首位打者を獲得、その年のナショナルリーグMVPを受賞し、1975年のワールドシリーズMVPにも輝いた。

1978年には、MLB歴代3位となる44試合連続安打を記録。同年5月には、通算3000本安打を達成した。 それも、15年で達成したのは、驚異ともいえる。
「タイ・カップさんが23年間かかったことを、わたしが15年でやれたのを、心から誇らしいと思う」
と、うれしそうに語った。



その1978年オフにFAとなると、フィラデルフィア・フィリーズに移籍。
「レッズに16年もいたから愛着はあるが、稼げるチャンスを生かしたい」
それも、4年間で320万ドルの超高額契約だ。メッサースミス事件がが引き金となり、その年の目玉商品・ローズの動向を注視していた各球団の選手のなかには、途方もない高額年俸の選手が続出することになる。

ローズとしては、
「レッズのゼネラル・マネージャーはワグナーじゃない。いまだにボブ・ハウザムさんだと、じぶんは考えている」
と、フロントに不満をぶつけた。この年、権限がワグナーに移ったのだ。また、
レッズがそれほど熱心に引き留めなかったのは金額だけでなく、ローズの私生活、とりわけギャンブルに耽溺していることを危惧したからだともいわれている。この時点では、ギャンブル癖が酷く、多額の借金まであったとされる。

それと、やはり野球人としてのプライドもあった。高年俸習得者でもあるローズは、それでも、
「レッズでは、3番目になる。わたしはこの業界では、トップの成績を残していることを忘れないでほしい」
と、やるせない胸のうちをはきだした。その当時では、レッズでの1番はジョニー・ベンチであり、2番は洒落男ジョー・モーガン二塁手だということは察しがつこうというもの。

しかし、ローズはレッズ時代と変わらぬ活躍ぶりを見せ、1980年にはフィリーズ史上初のワールドシリーズ優勝に貢献した。1984年にモントリオール・エクスポズに移籍し、MLB史上2人目となる通算4000本安打を達成した。

1985年は23年目で、45歳となったローズは、選手兼監督としてレッズに招聘された(自己都合だけで、打席に立つという悪評もたったが…)。同年9月11日にシンシナティのリバーフロントスタジアムでのサンディエゴ・パドレス戦で、左前に安打して4192安打を達成、タイ・カッブの持つMLB記録を更新した。7回には三塁打をも放って、記録を4193安打まで伸ばした。

この時にローズが用いたバットは、米国のホワイトアッシュ材をミズノが日本で加工したものであった。じつは大の親日家でもあったようだ。ミズノの契約選手として日本でも広告キャラクターに起用され、アメリカでは同社の製品を宣伝してまわった。

TV映画・「堕ちた打撃王 ピート・ローズ」(監督;ピーター・ボグダノヴィッチ)は、レッズの監督として指揮をとっていた頃からはじまる。野球殿堂入りも間近と噂され、誰からも愛される人柄で人気のローズだったが、ギャンブルに見境なく金をつぎ込むダークな一面も持ち合わせてもいた(※01)。強烈な個性ゆえ、誰からも好かれたわけではなかった。「記録のためにプレーしている」、「あのハッスルプレーも計算ずく」と、陰口を叩かれたり、金に汚いともいわれた。

前述のように、2015年2月にローズは処分解除をもとめ、9月にコミッショナーの・マンフレッドと面談。その際、レッズ監督時代の1987年にレッズの試合に賭けたことを認めたものの、選手時代、および選手兼任監督時代の1985年から1986年の間にも賭博に関与した件については、「思い出せない」などと話したという。

さらに、野球を含めたプロスポーツや競馬の賭け事を続けていることも明らかになった。またしても、復権が認められなかったローズは、
「失望している。私は野球人。それは変わらない。殿堂入りの望みも捨てない」
と、話した。ローズは過去に2度、別のコミッショナーの時代に処分の解除を求めたが、いずれも却下されており、3度目の却下となった。

しかしながら、2018年からスポーツ賭博の解禁が徐々にはじまり、すでに30を超える州で合法化。オハイオ州では一昨年12月に合法化が決まり、今年1月1日に解禁。シンシナティ市にオープンしたカジノで深夜0時からセレモニーが開催され、ローズが公式賭け客の第1号になった。

参考;※02 引用「Slugger(スラッガー) THE DIGEST 日本スポーツ企画出版社刊」