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史上最強のレフティー、ウォーレン・スパーン

mlb pitchers(Left)
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ウォーレン・スパーン(Warren Edward Spahn)

左腕投手としては、歴代1位・363勝

現役21年間のうち年間20勝以上を13回達成し、そのうち42歳のときに23勝を記録するなど、息の長い活躍。通算750試合に登板して、363勝で、歴代6位、左腕投手としては歴代1位。サイ・ヤング勝1回、最多勝利8回、最優秀防御率3回を獲得。

「野球とは失敗のスポーツだ。最高のバッターでも、およそ65%は失敗する」
──ウォーレン・スパーン

どんなに上手くても失敗することの方が多い野球というスポーツで一流となる選手は、(失敗をしない選手ではなく)失敗に上手に対処する独自の方法論を持っている。だから、「いかに失敗に対処して、成功に導くか」。

ウォーレン・スパーンは、1921年4月23日にアメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローで生まれた。父親はドイツ系アメリカ人で、母親はアイルランド系アメリカ人。幼い頃から野球に興味を持ち、13歳の時に地元の少年野球チームで投手として活躍。

1939年に高校を卒業したスパーンは、ボストン・ブレーブスとマイナーリーグ契約を結んだ。1941年にはAAA級のニューヨーク・ジャイアンツで10勝5敗の成績を残し、翌1942年にメジャーデビューを果たした。スパーンはメジャーデビューからすぐに活躍し、1946年にはサイ・ヤング賞を受賞した。

身長183センチ、体重83キロの典型的な長身痩躯な若者だった。投げるときは、フリー・フットを高々とキックアップする。そして、ピボット・フットのヒザを深く折る。強靭なバネ、下半身の安定がなければ、あのフォームは真似ることができない。利き腕を引いたときに、上体もかなり後方に反り返る。往年の快速王だった。

セントルイス・カージナルスの至宝、スタン・ミュージアルがスパーンを評して、
「スパーンは、絶対に殿堂入りすることはないだろう。なぜなら、かれはずっと投手であり続けるからだ」
という発言をしている。とはいうものの、ミュージアル引退時の翌年のこと、スパーンはかれに、
「おれはいつ引退すべきかな?」
と、相談を持ちかけたという。じつにうらやましい光景だ。所属は違っていて、話をする機会も少なかったはずだが、二人の心は完全に通じ合っていたのだ。

その生涯の好敵手であったミュージアルとの出会いは、1946年7月17日にはじまり、1963年9月13日に終わった。ミュージアルが、引退したのだった。43歳だった。
「わたしは18シーズン、ミュージアルに投げ続けたわけだ。不思議なことに、かれと対した最初の試合に2安打を喫し、うち1本は二塁打だった。そして、かれと対した最後の試合にも2安打を奪われ、うち1本は二塁打だった。かれほど安定感のある打者はいなかった。かれとのつば競り合いの死闘が果たせたわたしは幸せな男だった」
相棒ともいえるミュージアルが引退してからは、スパーンの投球術もがっくりと落ちたようだ。追っかけるように、スパーンも2年後に引退した。44歳だった。実働21年、息の長い投手人生だった。

1940年にボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)とプロ契約を結び、1942年にメジャーデビュー。直後の1943年から1945年までの3年間は、兵役義務のために陸軍に従軍。この時ヨーロッパ戦線、レマゲン橋の戦いで負傷するも戦功を認められ、名誉戦傷章と青銅星勲章を受勲。

野球界復帰後は、その現役時代のほとんどでブレーブスに所属し、チームのボストンからミルウォーキーへの移転も経験。ワールドシリーズには1948年 、1957年 、1958年と3度出場、1946年から1948年にかけては、もう一人の20勝投手ジョニー・セインとともに二本の大黒柱として活躍。1947年には、地元ボストンの新聞に、
「Spahn and Sain and pray for rain.(スパーンとセインで勝ったら、あとは雨(での試合中止)雨を祈れ)」
という見出しが載るなど、大車輪の活躍で、1948年にはチームを34年振りのリーグ優勝に導いた。

ブレーブス在籍中、スパーンは投手が獲得できるほとんどすべての名誉を手にした。12年間にわたり20勝投手になり、左腕投手として最多勝利をあげ、最多完封を記録。さらに、ナ・リーグで勝利、完投、完封、奪三振の各項目で首位に立った。スパーンはほとんど故障することなく、44歳まで投げ続けた。47~63年は毎年245イニングを超え、最後の65年もあと2.1イニングで200イニングだった。



しかしながら、長年の望みであったノーヒット・ノーランは、ついぞ実現できそうになかった。ところが、40歳近くになった16シーズン目の1960年9月116日、20勝目を目指していた、その日だった。

対フィリーズ戦を、4−0と完封したとき、出塁したものはたった2人、ともに四球で出塁。15奪三振、自己最高の記録だった。待ち望んでいたノーヒット・ノーランが、ここに達成したのだった。
「夢に終わろうかというときになって、実現したのだ。諦めかけていたときに、突如実現したのだ。その次の年、続けて、もう一度やったんだ。これが、人生っていうものだなあ」

2度めのノーヒット・ノーランは、対ジャイアンツ戦だった。ノーヒットはもちろん、打者27人で試合を切り上げたのだ。1−0の完封だったが、四球2つが完全試合への道を閉じてしまった。
「そいつは、まったく簡単にいった。なにもかもが思い通りにいった。わたしには、運がついてまわったのだろう」

奪三振の記録は、8回無失点16奪三振をマークしたブレーブスの新鋭・ストライダーにやぶられたものの、延長を含むと、ウォーレン・スパーンが1952年で記録した15回で18奪三振が最多だ。

それ以上に、かれにとっては、最高のスリリングな試合が待ち受けていた。1961年8月11日、対カブス戦に2−1で勝ち、通算300勝以上記録した投手14人のうち1人となり、”300勝利クラブ”の会員資格を得たのだ。

かれは、”今まで以上に、エキサイティングな試合だった”と、興奮気味に記者団に語った。
「いつか300勝を達成する日がくることはわかってはいた。興奮はしていないつもりだったが、試合のはじまる数時間前になって、すごくプレッシャーを感じはじめた。6時頃には、今すぐはじまってくれないものかと思った。早く肩の荷をおろしたかった。あんな難しい思いをしたのははじめてだった」

カブス最後の打者がハンク・アーロンへのフライでアウトになり、試合は終わった。スパーンはにこにこしてチーム・メイトと握手をしてまわり、外野の真ん中あたりで、貴重なな記念品である最後の球をハンク・アーロンから受け取った。フィールドを出かかってスパーンは、スタンドのファンに向かって、防止を取り、キスを投げかけたものだ。

1965年に、ブレーブスを退団。背番号『21』は、ブレーブス初の永久欠番となった。その後、ニューヨーク・メッツとサンフランシスコ・ジャイアンツに所属し、同年にメジャーリーグからは引退するが、その後数年間はメキシカンリーグでもプレー。1973年に野球殿堂入り。2003年11月24日、余生を過ごしていたオクラホマ州ブロークンアローの自宅にて老衰により、生涯を閉じた。

※シーズンで最も活躍した左腕投手に贈られるウォーレン・スパーン賞、1999年にはじまった。オクラホマ・スポーツ博物館がこの賞を創設したのは、スパーンが長年にわたってオクラホマ州に住み、03年に82歳で生涯を終えた場所でもあるからだ。

■球団のはじまりは1871年にボストン・レッドストッキングスが設立されてからのことで、幾度となくオーナーが変わるとともにチーム名も変わるという不安定な時代が続いた。1912年、球団は新たにジェームズ・ガフニーがオーナーになると、スタープレイヤーだったジョン・ウォードの進言によって、チーム名をボストン・ブレーブスとしたことで、ようやく愛称が定着するようになった。

ブレーブスの愛称は、タマニーホール(当時NYを支配していた民主党の中の組織のひとつ)のシンボルがインディアンの羽根飾り(ブレーブス)であり、タマニーホールのメンバーであったガフニーにとって政治的な意図があった。

その後、ミルウォーキーに移転、1953~65年までミルウォーキー・ブレーブスとして活動した。1966年には球団はアトランタに再移転し、現在のアトランタ・ブレーブスとなった。2度の移転がありながら引き続きブレーブスの愛称が使われた。