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伝説のはじまり、ベーブ・ルース(2)

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MLB・レジェンド

伝説のはじまり、ベーブ・ルース(2)

1913年の18歳のときにマイナーのオリオールズに入団し、翌1914年にレッドソックスにトレード。ちなみに身長は188cmと、プロにしてはやや平均的。デビュー戦の7月11日には、初登板初勝利を記録した。

だが、当時のレッドソックスにはスター選手が多かったことから、4試合しか登板機会が与えられず、マイナーへ降格。

それでも、1914年10月17日、ボストンで知り合ったコーヒー店ウェートレスのヘレン・ウッドフォードと結婚。それからおよそ5年間、ルースは大活躍。レッドソックスを3度の優勝に導くなどして、中心的プレーヤーとなった。

翌1915年には18勝を上げ、チームもワールドチャンピオンに輝いた。1916年には23勝を上げ、チームも2年連続ワールドチャンピオンに輝いた。翌1917年は優勝を逃したが、ルース自身は前年を上回る24勝を上げた。

それとともに打者としても非凡なものをもっており、投手として投げない日は、野手としても出場する機会が増えた。1918年には、11本塁打を放ち本塁打王。この年も、ワールドチャンピオンになったレッドソックス。とりわけルース自身は1916,1918年のワールドシリーズで投手として、29回2/3イニング連続無失点の当時メジャー記録をつくった。

1919年には、投手よりも外野手での出場が増え、29本塁打を放ち、2年連続本塁打王を獲得したが、チームは振るわず優勝は逃した。そんなルースを打者に転向させたのは、選手経験もない監督、エド・バーロウだった。ルースのスランプ時をみはからって、投手から外野手にコンバートしたのだ。のち、ヤンキースの辣腕ビジネス・マネージャーとなり、華々しい黄金期を築き上げることになる。

そしてそのオフ、衝撃の出来事が起こった。レッドソックスのオーナー、ハリー・フレイジーが多額の借金を抱え、財政難に陥ってしまった。それまでも有力選手を金銭トレードで、オーナーの事業の穴埋めにされてはいたのだが…

ついにというか、1919年12月、ニューヨーク・ヤンキースに当時では破格の12万5000ドルでルースを売却。その後、レッドソックスは2004年にワールド・シリーズで優勝するまでは、負け続きの暗い道を歩むことになった。これがジンクスとなり、この「失敗トレード」のことを、のちにスポーツ・メディアは、「バンビーノの呪い」と揶揄したものだ。

このよく知られたバンビーノというニックネームは、ヤンキースが間借りしていたポロ・グラウンド(マグローひきいるニューヨーク・ジャイアンツの本拠地)の北端は、イタリア人が多く住んでいた。英語のベーブにあたるイタリア語のバンビーノのリズムがごく自然なものになった。

しかし、ヤンキースにとっては、まさに収穫。ルースの入籍後、15シーズンを通してワールド・シリーズ4連覇を勝ち取った。ルースは、むろん中心的プレーヤーとなっていた。

ヤンキースに移籍したルースは、外野手に専念。当時の監督、ミラー・ハギンスの脳裏には、投手・ルースの構想は一片もなかった。そして、その年にいきなり「54本塁打」を放つと、1927年には不滅の大記録といわれた「60本塁打」を放った。

ルースはといえば、ルールに厳格なハギンス監督によく食ってかかったようだ。毒舌でやりかえされると、ルースも負けじとやり返した。極めつけは、罰金5000ドル事件だ。

素行の悪さは相変わらず、あげくは打撃の方はストップ、監督の指示にしたがわない。しまいには、ルースはハギンスが定めた門限午前1時を破った。ハギンスはラパート大佐、バローの了解を得て、
「きょうは、きみはプレーしなくていいんだ。きみを出場停止処にする。罰金5000ドルだ」
驚きあきれたルースは思わず、下品な言葉でどなりつけ、
「お前さんがおれの体の半分さえあれば、ケツからクソが出るくらいなぐってやるんだが…」
とすごんだという。が、ハギンスもさるもの、こう言い放った。
「お前の半分もあれば、こっちがお前さんをなぐり飛ばしているよ」
と、ルースの胸板に指を突きつけた。結局のところ、罰金はうやむやになったが、もうハギンスに逆らうことはもうなかった。

が、とうの辛抱の人・ハギンス監督が1929年、試合中に具合が悪くなり、病院に直行も、5日後急逝。50歳だった。葬儀では、あのルースでさえ、号泣したという。

1919年に「ブラックソックス事件」での裁判沙汰で、メジャーリーグは信用を失い、人気にも陰りが出てきた。が、そんなこの時期に、ルースの豪快なホームランで人気を取り戻し、「メジャーリーグを救った男」といわれるようになった。1921年 打率378、59本塁打 この年、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。


1923年には新本拠地、ヤンキー・スタジアムが建設され、7万4千人が見守るオープニングゲームでは、ヤンキー・スタジアム第1号ホームランも放った。ヤンキースのチーム史上初のワールドチャンピオンにも大きく貢献した今となっては当たり前のように毎年50本塁打を打つ選手が現れるが、当時はルース1人が飛びぬけてホームランを量産していたのだ。

7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ生活で更新。ルースの名前は、もはや本塁打の同義語として扱われたものだ。

1927年、その後34年間保持することになる60本塁打に加え、打率356、164打点、長打率.772、4度目の本塁打記録更新となる。

シーズン最終戦一日前の試合だった。シングル・ヒット2本、ホームランは出ない。が、その4打席目だ。もうルースを止めることはできなかった。ビンボールまがいの高めのカーブをとらえると、打球は右翼席の奥深く消えた。ルースの、いままでにもない悪球打ちだった。
「みたか! 60本だぞ。これに挑戦する奴がいたら、お目にかかりたいね」
と、ルースは思い切り大声で叫んだ。

この年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線」と呼ばれていた。ワールド・シリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事にシーズンを終えた。また、この1923年に建てられたヤンキースタジアムは、この頃から「ルースが建てた家」と呼ばれるようになった。

さて、スーパースターであったルースは、その生活ぶりもたいへん豪快なもの彼の数々の功績と共に伝説ともなっている。食生活では、「1日に10個のホットドッグを食べる」と、噂されるなど相当な暴飲暴食を続け、次第におなかのふくらみが目立つようにもなったものだ。1916年当時のすらりとしたアスリートらしい姿から、現在でもよく知られる通りの丸々と太った体型に変化していた。

そんなルースだが、酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、2ケタ盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。かのタイ・カップも後年、ルースのことを、
「太っている割には、走るのが速かった」
と述べている。

そのほか、消費グセも半端がなかった。ほとんどをギャンブルですっていたらしい。稼ぎに稼いだが、蓄財は皆無。驚いたのは、管財人のウオルシュ。口を酸っぱくして倹約と蓄財を説くも、ルースは知らんぷり。弁護士と相談のうえ、かれはせっせとヘソくりをはじめたのだ。この金が、なんと25万ドルにもなった。これが後にルース自身を、かれの死後クレア未亡人を助けることになる。

そのほかパーティーや女性関係も奔放で、妻・ヘレンとの結婚生活も、すっかり破綻にひんしていたのだ。ヘレンは、ルースの女遊びに我慢ならなくなっていて、もうついていけなくなっていたのだ。1928年のこと、マサチューセッツ州にあったルースの家が焼失。その家に住んでいたヘレンも焼死するという悲劇が起こった。

けれども、それよりも先、ルースはこれぞという”もう一人の女性”にめぐりあっていた。名前は、クレア・マーリット・ホジソン夫人。たぐいまれなる美貌の未亡人だった。それに、彼女にはセックスを超越した何かがあった。ルースは恋に落ち、そのうち二人は一緒に、公然と姿を現すようにもなった。

こうした奔放な生活ぶりがルース自身の体調を壊すことにつながり、原因不明の体調不良に見舞われた。体調不良が成績にも響き、ヤンキース移籍後最低の成績でシーズン終了したこともあった。1925年のことだ。

1930年には年棒8万ドルで契約更改し、当時のアメリカ大統領ハーバート・フーバーよりも稼ぐ男として「大統領よりも稼ぐ男」と話題になった。

まあもっとも、ルースの人気はすさまじいものがあった。ヤンキースへのトレード後、観客動員数が2倍を超え、年々増加していった。お金の話は続くが、在籍14年間でのルースの年俸総額はおよそ85万ドル相当だという。そのほかの分配金などを含めると、125万〜150万ドルにもなるという。

参考:『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)