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伝説のはじまり、ベーブ・ルース(3)

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MLB・レジェンド

伝説のはじまり、ベーブ・ルース(3)

メジャーリーグを代表する選手となったルースは数々の伝説も残しているが、その中で有名といわれているのが1932年のワールドシリーズで記録した「予告ホームラン」であろう。

この年のヤンキースはシーズンで107勝47敗を記録しリーグ優勝、ワールドシリーズではシカゴ・カブスと対戦。

あの伝説のホームランがうまれたのは、ヤンキース連勝で迎えたシリーズの第3戦、ルースにとってはじめてのリグリー・フィールドでのことだった。4-4の同点に追いついた後の5回表だ。外野フェンスを指さして打席に入ったルースの打球は、外野を超えてホームラン。飛距離にして約490フィート(約149m)といわれる豪快な一発だった。

観客は指でさして予告ホームランを打ったと受け取ったのだが、じつは数をかぞえていたのだ。ルースは打席に入ると、捕手に、
「もう一度ここへ投げたら、またホームランをかましてやる」
すでに、3ランをはなっていた。そのコースを指差した。投手が投げた、
「ワン・ストライクだな」
と、指をたてた。次球もストライク。
「ツー・ストライクだな」
と、また指をたてた。そして、センターへの大ホームランだ。

ルースのホームランで勝ち越したヤンキースはこの試合に勝利、翌日におこわれた第4戦も制したヤンキースは負けなしの4連勝でシリーズ制覇。ちなみにこの「予告ホームラン」は、ルースがワールドシリーズで放った最後のヒットでもある。

1933年7月6日、ある少年の「カール・ハッベルと、ベーブ・ルースの対決が見たい」という一通の手紙から実現したオールスターゲーム。この第1回オールスターゲームで、記念すべき第1号本塁打は、ルースが3回にビル・ハラハンから放った一発だった。

くしくもカール・ハッベルは8回から登板したが、最終回にルースがベンチに下がったため、両者の対戦を観る事は出来なかった。翌年の第2回のオールスターゲームではこの夢の対戦が実現し、ハッベルのスクリューボールが冴え、ルースは手が出ず、見逃し三振に終わった。

メジャー通算22年間で、首位打者1回(1924)、本塁打王12回(1918~1921,1923,1924,1926~1931)、打点王6回(1919~1921,1923,1926,1928)MVP1回(1923)、ヤンキースに在籍した15年間で7度のリーグチャンピオン、4度のワールドチャンピオンをもたらし、1935年にバットを置いた。

ヤンキースでの最終年となった1934年の成績は打率.288、ホームラン22本、打点84と、40歳近い選手としては高水準の成績を残していたが、全盛期に比べると成績は低下していた。

1935年、40歳。ルースはこの頃から選手として終わりが近づいていることを悟っていた。が、それ以上に、心はヤンキースの監督になることを目指しており、マッカーシー監督の後任になる希望を隠しきれずにいた。

しかし、ルパートはマッカーシーを辞めさせる気はなく、逆にこれはルースと、マッカーシーの間に大きな軋轢を残した。2月26日、ルースをボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)にトレードした。

このトレードにおいて、ルースは選手としてだけでなく、チームの副代表として選手の獲得や、人事に関する権限を握ることになった。ブレーブス監督ビル・マッケチニーにつかえる助監督にも就任。

ブレーブスはそれなりのチームとして結果を残していたが、フックスは負債に悩んでおり、本拠地ブレーブス・フィールドの家賃を払えない状態でいた。そのため、集客力のあるルースはめっけもんで、ちょうどよい補強であったのだ。
「ルースに、一つの提案をしてみるつもりだ」
と、フックスはなにくわぬ顔をして、
「もしわれわれの球団に来てくれれば、助監督になってもらい、球団の役員の地位を用意するつもりだ。希望があれば、試合に出たいだけでてもらう」
と、早口で説明した。

メディアが注目するなか、ルースは本拠地としてのボストンに16年振りに帰ってきた。ニューヨーク・ジャイアンツとの開幕戦には2万5,000人の大観衆が集まり、4-2でブレーブスが勝利した。

ルースは、全得点に絡む大活躍を見せた。しかし、それ以降チームは低迷することになってしまった。

ルースはといえば、カゼをひき試合を休んだり、スタメンででるも、最後まで残ることは一度もなかった。走塁の衰えは著しく、たまに四球でても、足が遅く、満足に走塁もできなかった。むろん、守備もなっていなかった。フックスに契約前に、
「空いている外野に入ってもいい」
といわれていたが、守備の衰えはあまりにもひどく、ブレーブスの投手陣は、
「ルースがラインアップにいる以上、マウンドに上がることはできない」
と、ボイコット寸前の姿勢を見せていた。そのうえ、フックスの望んだ観客動員数も、ガタ減りだった。

マッケチニー監督もチーム運営に際してルースの助言を受け入れることはほとんどなく、助監督と、副代表としての役職は名ばかりであったということにルースは怒り心頭。フッシュがルースに約束していた「球団の利益の分け前を与える」も、ウソであった。それだけではなく、フックスはルースにチームに5万ドルの資金を投資することさえ望んでいたのだ。

5月、ルースとフックスは、ついに衝突。球団の経営を助けるため、入場券セールを促進するための催し物に、ルースは無断で欠席。フックスはルースをなじると、ルースも、
「お前さんは、じぶんの仕事をやっていればいいんだ。オレには、オレの仕事があるんだ」
と、大声でわめきかえした。この直後、ルースはフックスと、マッケチニー監督に、
「もうレギュラーとして、出場できない」
と申し出た。が、各地で”ルース・デイ”を企画していて、今すぐ引退できないことはわかっていた。
「オレは間違いを犯したよ。契約にサインすべきじゃなかったよ」
といい、
「オレは、ヨレヨレで使いもんにならん。もう疲れ果てた」


1935年5月25日、ペンシルバニア州ピッツバーグ、フォーブス・フィールドにて、体重も増加し、衰退しかけていたルースは最後の力を振り絞り、3本のホームランを打ち、ファンに「伝説のベーブ・ルース」を見せつけた。5月30日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で途中交代すると2日後に現役引退を表明することになる。

6月1日、ジャイアンツ戦が終わった後のルースは、新聞記者をロッカールームに集めて、現役引退を表明。その5日後、5月30日ルースは正式に引退することになった。引退後は監督就任を目指したが、結局最後までどこのチームからも声はかからなかった。

引退してからのルースは、3年後の1938年にブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)のゼネラル・マネージャーだったラリー・マクフェイルのオファーを受け、一塁コーチに就任。が、コーチ業は長く続かずにわずか1年で辞任。この後ルースがメジャーリーグの仕事に関わることはなく、さびしい形でメジャーリーグを去ることになった。

1939年1月、ラパート大佐が死んだ。ゲーリックも死にかけていた。ルースも万全ではなかった。ゴルフ、ボウリング、そして狩猟の生活にひたっていたが、車での事故を起こしたことをひどく気にしたり、ゴルフ場で軽い心臓発作をおこしたり、カゼの症状が重くなり病院に運ばれもした。

それでも、寛大な選手としても有名だったルースは、その後チャリティイベントなどを開催したり参加することに多大なる時間を費やした。

1948年6月13日、かれは、ヤンキースタジアム開場25周年記念祝典に参加し、この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号「3」が永久欠番に指定されることになった。その日かれは、当時存命していた1923年当時のヤンキースメンバーとのしばしの再会を楽しんだという。

ガンを患っていた体は見た目も弱っており、以前の社交的なルースではもはやなくなっていた。バットを握ることもできなかったほどだった。この時撮られた写真は、野球史上最も有名な写真の一つとなり、これによってカメラマンはピューリッツァー賞を受賞している。

1948年の春先から具合がよくなかった。7月26日に自伝映画「ベーブ・ルース物語」の試写会に参列したのを最後に公式の場に姿を見せなくなり、それから約1か月も経たない1948年8月16日、恵まれない子供たちのためのベーブ・ルース財団に多額の財産を遺し、2番目の妻クレアと、二人の養女ドロシー、ジュリアに見守れながら安らかに息を引きとった。享年53歳とはやすぎる死だった。

ルースの最後の言葉は、
「谷の向こうにいこうとしたのだ」
と、ふいにベッドから起き上がって、部屋を出ようとしたとき、看護婦と医者にこう答えたという。谷の向こうとは…? そこにいったい何があるんだろう、いや何かあったんだろうか? 

その後亡くなったルースの亡骸は、2日間ヤンキー・スタジアムに安置され、約15万の人(半数は子ども)が別れを告げに訪れたとされている。

参考;「誇り高き大リーガー」 八木一郎著 講談社刊
   「英雄ベーブルースの内幕」R.クリーマー著 宮川 毅訳 恒文社刊