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52歳の現役捕手、ジム・オルーク

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52歳の現役捕手、ジム・オルーク

Jim O’Rourke

最年長現役選手の記録には、アメリカン・リーグにはサチェル・ペイジ、ナショナル・リーグの欄にはジム・オルークの名がみえる。オルークは、ペイジよりもざっと60年も前に、52歳の現役捕手としてニューヨーク・ジャイアンツで1試合だけだが、完全出場したとされている。ペイジについては、以前このコラムでも書いたように、インディアンズに入団したときは、すでに42歳だったし、59歳の新入りとして、アスレチックス入団のとき、先発して3回を投げた(生年月日は、不詳)。

オルークは1852年、コネチカット州ブリッジポートに生まれた。
「14歳のころから、野球に親しんだ」
そうだ。ちょうど南北戦争が終わったばかりで、消煙の臭いがまだ残っていたころだ。ニックネームは、”Orator Jim”(弁士のジム)と呼ばれた。大リーグでの実働は19年間で、2304安打、本塁打51本、打率.310。死後、1945年、ベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出。


いろんな経緯の上(※01)、最初のプロ野球チーム、シンシナティ・レッドストッキングズが誕生したのは、1868年のことだ。シンシナティ市の純然たる素人の集まりが、公然と”プロ野球クラブ”の名乗りを上げたのだ。異才ハリー・ライトの発想だった。

イギリス生まれの、ニューヨーク育ちのライト。クリケットの名手であり、この地・シンシナティ市のクリケット・クラブに招かれていた。そこで、ある発見をした。同市の野球クラブがクリケット競技場を間借りしていて、試合をしていたのだ。観客も多く、かれも野球とやらをやってみると、おもしろくてたまらなくなった。これはいけると思ったのか、かれはプロの野球クラブをつくろうと思い、まずは3人の選手を入団させた。これを皮切りに、ライトは抜け目なく着々と準備をすすめていった。

そんななか、そのうちの一人プレナード投手は、保険のセールスマンとの掛け持ちだったが、市内の書籍商トルーマン家に寄宿していた。そこに、マーガレットとマリーという娘たちがいた。二人はプレナード(のち、マリーと結婚)を通じてチームのファンになった。彼女たちは、チームの面々に赤い靴下を編んでプレゼントした。選手たちに好評だったし、対外的にもアピールできた。これが、レッドストッキングズというニックネームの由来だ。

地元・シンシナティ市の名士を会長に仰ぎ、監督兼選手のライトを中心に、ニューヨークですでに野球に親しんでいた弟を遊撃手にすえ、才能のある選手を各地から集めた。本拠地は、ユニオン・パークで、現ユニオン駅にあったらしい。翌69年、全国を転戦して69勝0敗の戦績を残した。これが刺激となって、各地に続々と強力なプロ野球チームが結成された。

もう無敵じゃない。5敗したのをきっかけに、1970年のシーズンが終わる前に早々と解散してしまった。選手たちはほかのチームに移籍。20歳のオルークが最初に入団したマンスフィールドも、その一つだ。

やがて、ナショナル・アソシエイション・オブ・プロフェッショナル・ボール・プレーヤーズ(NAPBP)なる連盟が誕生。しかし、選手が管理運営するものだから、組織の統制が乏しく、罰するものもいないから八百長のやりたい放題。シカゴの切れ者実業家・ハルバートが、これを見かねて新連盟を組織(後、会長)。これが、今も続くナショナル・リーグだ。

オルークは、1876年新連盟創設時リーグ傘下のボストン・レッドストッキングズに入団。監督は前記のハリー・ライトだ。シンシナティ・レッドストッキングズの解散で、このチームの監督に招かれていたのだ。そのとき、ニックネームのレッドストッキングズをも持参。後の、レッドソックスだ。そう、現アメリカン・リーグのボストン・レッドソックスが、それだ。

捕手出身のオルークだったが、打撃をもかわれ一塁も守っていた。それがまた、抜群にうまく、カッコ良かったらしい。前年にグラブが初登場し、かれはそれをはめて、横っ飛びに好捕したりしていたのだ。グラブといっても、防寒用の手袋と大差ない大きさだったのだが…。

そのころ試合前にはアトラクションが毎度用意され、オルークはシャドー・プレーにすぐれ、子どもたちだけではなくみんなの人気者だった。プロビデンス、バッファロー、ニューヨークと渡り歩き、そのバッファローでは、監督兼捕手だった。そして、ワシントンが現役最後の球団となった。41歳だった。

郷里・ブリッジボートに帰ったものの、野球をやっていないと死ぬほどつらい。野球が好きで好きでたまらないのだ。でも、もうこの年じゃ、どの球団も雇ってはくれない。それじゃ、ということで、自分で自分の球団をつくればいいじゃないかとひらめいたのだ。知人を誘って、それぞれ球団をつくらせ、ついにはコネチカット・リーグまでをも結成してしまった。もう退屈だなんていってはいられない、こんどは死ぬほど忙しくなったのだ。球団オーナーはもちろんのこと、事務局長をもやり、監督も、捕手までも引き受けたのだから…



そんなオルークにとって大事変が起こったのは、1904年のことだった。ボルチモア・オリオールズの共同オーナー兼監督である”球界の最高頭脳”ジョン・マグローが、1902年、突然ニューヨーク・ジャイアンツ監督就任。そこは、さすがにマグローだ、翌年万年Bクラスのジャイアンツを優勝争いに絡ませ、一気に2位にひき上げたのだ。そして、この1904年はめざましい快進撃を続け、9月半ばにはリーグ優勝も目前という形成になってきたのだ。

「自分も優勝に貢献したい」
オルークは、もういてもたってもいられなかった。
「優勝に貢献したのだ」
という気分を、一度でも味わいたい。むろんジャイアンツでマスクをかぶっていたし、思い入れもあり一段と愛着深い球団だったのだ。ついに意を決して、
「わたしをもう一度大リーグの試合に出場させてください。1イニングでもいい、マスクをかぶらせてください」
と、マグローに直談判をしたのだ。このあまりにも突拍子もない要請に、マグローは大いに面食らった。が、そこはかれのこと、大先輩に対して丁重にことわったのだが、すると今度は方向転換をして、鉄腕・マクギニティに接近して口説きに口説いた。

”鉄の男”と異名をとるマクギニティ(”Joe” McGinnity; 1946年ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出)も、つい情にほだされてオルークと一緒になって、マグローを口説いた。根負けしたマグローも、とうとう承諾したというからおもしろい。試合は投手・マクギニティ、捕手・オルークでのぞむことになった。

試合前は1イニングだけという約束だったが、初回を無難に乗り切ると、
「ものすごく調子がいいんです。もう1回やらせてください」
と、オルークはマグローに、またも直訴。だが、2回が3回、3回が4回と次々と延長されていく。こうなると、観客も、もうすっかり大喜びだ。一死ごとに、万雷の拍手だ。オルークは守りもいいが、打ってもいい。レフトに痛烈な安打をかっ飛ばし、左翼手がもたもたしているあいだに、二塁に走った。あわてて二塁に投げると今度は悪送球、脚力にまかせ三塁まで進んだものだ。

オルークは結局、全部の回をまかされ、そのうえジャイアンツの勝利というおまけ付き。これが同球団の100勝目、優勝が確定した。翌日の新聞はジャイアンツの優勝と、もちろん52歳の現役捕手の健闘をそろって掻き立てたものだ。

そんな市民の大称賛を背に、オルークはニューヨークを後にした。
「明日からはまた、田舎チームの監督兼捕手だ」
と、つぶやいたとか….。マスクと決別したのは、それから5年後。57歳のときだった。1919年、69歳で死去。

※01;いまだ推測ばかりの野球誕生などについては、あらためて書き記したいと思う。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)