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ルースを破った男、ハンク・アーロン

mlb batters(Right)
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ルースを破った男、ハンク・アーロン

Hank Aaron

1974年、ハンク・アーロン(当時アトランタ・ブレーブス)は対レッズ戦、ビリングハム投手から初回に本塁打を放った。これが通算714号で、ベーブ・ルースの記録とタイになった。その4日後、対ドジャース戦で、ダウニング投手から4回に通算715号を放ち、1935年にうちたてられたルースの記録は39年ぶりに破られたのである。

1999年に、その年の最も優れた強打者に贈られる「ハンク・アーロン賞」が創設された。アーロンが、ベーブ・ルースの通算本塁打記録を塗り替えてから25年目のことだ。大リーグ公式サイトの記者投票、ファン投票、殿堂入り選手の投票によって、各リーグ1名ずつが選出される。イチロー(マリナーズ)も、過去2度最終候補も受賞ならず。また、2022年のこと、大谷翔平(エンゼルス)も、2年連続で最終候補に入ったが、日本人初の受賞とはならなかった。

ハンク・アーロン、愛称は「ハマー(Hammer)」。1934年2月5日、アラバマ州モービル石油発祥の地・モービルで生まれた。農園の小作人だった父は、その頃はアラバマ造船のボイラー製造部門の助手をしていた。その地域には、野球チームがなかった。とはいっても、幼い頃から道具もソーダの栓やぼろ布、ブリキの蓋などを使い、野球のまねごとをしていたようだ。アーロンは野球が大好きで、暗くなるまで草野球に興じていた。

そこをエド・スコットという人の仲介で、セミプロのモービル・ブラックベアーズに遊撃手として入れてもらえた。毎週日曜日に試合に出て、数ドルの手当を受け取った。それがそのエドによると、ハンク少年は右打ちなのにグリップが逆だったらしい(いわゆるクロスハンズ)。右打者の場合、構えたとき左手が右手より上になる。それでも、痛烈な当たりを飛ばしていたらしい。そのためか、かれの手首は、人並外れて強かった。「史上最強のリスト・ヒッター」と呼ばれたほどだ。

さてさて、高校の卒業が近づくと、いくつかの大学からフットボールでの入学の誘いがあった。だが、かれはドジャースのジャッキー・ロビンソンに憧れ、野球で身を立てたいと、ずっと思っていた。そんなときだ、たまたま一個上のクラス、黒人セミプロ球団インディアナポリス・クラウンズに誘われ、そのまま契約。

あとはトントン拍子で、大リーグに駆け上がることになる。このときオークレア球団に入るころ、ジャイアンツ系のスー・シティ球団からも誘われていた。が、オークレア球団の提示条件が50ドルばっかり高かったばかりに、こちらを選んだ。もしもだが、スー・シティ球団を選んでいれば、生涯の好敵手ウィリー・メイズとプレーしたかもしれないのだ。なんとも夢のある共演になっていたことであろう。

ついでマイナーのジャクソンビル球団をへて、1955年、アーロンはついに念願の大リーグ、ブレーブスにあがった。その前年にブレーブスはボストンからミルウォーキーにフランチャイズを移転し、チーム名もミルウォーキー・ブレーブスとしての2年目だった。そのころのブレーブスは、じつにそうそうたる顔ぶれだった。通算363勝の大エース、ウォーレン・スパーンは健在だったし、通算512本塁打の主砲エディ・マシューズをも擁したチームだった。

そのジャクソン球団在籍時に、ちょいとおもしろいエピソードがある。よく味も素っ気もなく、仏頂面のアーロンと思われていたし、俗にいう融通のきかない典型的な南部男ともみなされていたのだ。
「おい、どうしたんだ? 」
二晩続けて無安打に終わっていたので、同僚が心配してたずねた。すると、アーロンは、
「ノー・ヒットのことか? 大丈夫だ。おれはスタン・ミュージアルさんに電話して、アドヴァイスを聞いてある」
「ほう、ミュージアルさんはなんといった? 」
「何も心配することはない。いまのスイングでブンブンふりまわせと、そういわれた」
その夜、どういうわけかアーロンは2本の二塁打をかっとばした。ところが、翌日、めったに新聞を読まないアーロンがおどろいた。
「ジャクソンビル球団の新進気鋭の二塁手ハンク・アーロンは、このところ不振だったが、昨夜2本の二塁打を放ち不振を脱出した。その陰には、大打者スタン・ミュージアルの助言があった…」
ミュージアルに電話したというのは、まだ19歳のアーロンのほんの冗談のつもりだったのだが、実直な田舎モンと思われていただけに、本当だと受け取られてしまったのだ。

さて、そんな矢先、ニューヨーク・ジャイアンツから移籍し、左翼手のレギュラーと目されていたボビー・トムソン(1951年のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ最終戦でサヨナラ3ランを放った選手)が、春季キャンプの練習試合で二塁へのスライディングの際に足首を骨折するアクシデントが発生。ところが、翌日の試合で左翼手でスタメン出場したアーロンは本塁打を放ち、これをきっかけにレギュラーを勝ち取った。

1957年、地獄のキャンプをしいたフレッド・ヘイニー監督に率いられ、9月になっても勢いはおとろえなかった。中旬からなんと8連勝をつづけ、ついにやってきた9月23日、ミルウォーキーでの対カージナルス戦、いよいよ大一番の一戦だ。

スコア2対2で迎えた延長11回裏一死。走者を二塁において、アーロンは中堅後方にある「ペリニの森」に飛んでいくサヨナラ2ラン本塁打放ち、リーグ優勝を決めた。「ミルウォーキーの奇跡」と呼ばれるナショナルリーグ優勝、その勢いをかってワールドシリーズ制覇をも果たすことになる。アーロンは翌日の24日には44号・満塁弾を放ち、本塁打と打点の二冠王となり、シーズンMVPを獲得。

ワールド・シリーズはケーシー・ステンゲル監督率いる、ミッキー・マントルを擁する強豪ヤンキースと対決。
「最高の選手は、ハンク、おまえなのか、マントルなのか? 」
と、アーロンは相当意気込んでいたはずだ。そのうえ、ステンゲル監督が、
「ミルウォーキーなんて、マイナー・リーグもいなか町だ」
と、せせら笑ったのも気に入らなかった。ところが、頼みのウォーレン・スパーンが第1戦で打ち込まれ分が悪かったが、バーデッド投手の活躍もあってよくまきかえし、ニューヨークでの第7戦までもつれこむ大激戦となった。勝敗の分岐点は、ミルウォーキーでの第4戦だった。逆転に次ぐ、逆転と、これぞ野球の醍醐味。

ブレーブスは4−1と逆転し3点リード、ほぼ勝利を手中におさめたかとおもいきや、9回表にヤンキースが猛反撃。エルストン・ハワードの3ランで同点。延長10回に入ってヤンキースは1点を追加し、逆にブレーブスはまさしく敗色寸前だった。ところがデッド・ボールをきっかけにより1点を返し、同点打のローガンをおいて主砲エディ・マシューズがライトスタンドに白球を叩き込み、ブレーブスが7−5でサヨナラ勝ちしたのだ。

なお、その4回裏でのこと、走者二、三塁の場面でアーロンに打席がまわってきた。ステンゲルは、
「この強風では、ベーブ・ルースでも本塁打を打てないだろう」
と、勝負させるも、かれは豪快な3ランホームランをかっ飛ばすと、ステンゲルは、
「奴は、ベーブ・ルースではなかった」
と、悔し紛れにコメントしている。ブレーブスはヤンキースを4勝3敗で破って、ワールド・チャンピオンになった。アーロンは3本塁打、7打点、11安打、22塁打、打率.393の大活躍を見せた。ニューヨークでは、
「ド田舎が勝った」
と、評されたものだ。ちなみにマントルの戦績は、打率.250と平凡な数字に終わった。



60年代も、アーロンは派手に騒がれる選手ではなかった。単年本塁打数がさほど多くはなかったし、豪快なアーチを描くことも少なかった。むしろ、「コンスタントに本塁打を打っている」イメージがあり、本塁打や安打を営々と積み重ねていく印象が根強かったのである。

1973年、ベーブ・ルースの記録に追いつくまであと1本のところでシーズンを終える。しかし、このシーズンオフは、アーロンにとっては、いいつくせないくらい精神的なダメージをしいることとなった。

ルースの記録を信奉する者や、白人のルースの記録を黒人のアーロンが破ろうとしていることに反感を抱く白人至上主義者による執拗な嫌がらせや、身の危険となる脅迫に拍車がかかったがのである。脅迫状のなかには、大学に通う長女・ゲールのナッシュビルの消印のものもあって、FBIがボディガードをつける騒ぎともなった。

アーロンは当初、この事実を隠していたが、ある時ふとした事がきっかけでこれに触れたところ、今度は全米中からアーロンを支持する激励の手紙が届いた。当時アーロンは、
「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていない。ただ、私を覚えてもらいたいのです」
と訴えている。優秀な選手としてだけでなく、人格者としても知られた。

しかし、アーロン自身も、このときの恐怖には長くつきまとわれたようだ。球場への出入りには秘密の裏口を使った。ボディガードを連れずに外出することはなかったし、レストランでは、扉に背を向けて坐らなかった。席を離れたときに残したコップの水には二度と口をつけなかったし、ホテルへチェックインするときも、母の旧姓やアシスタントの苗字を使ったともいわれている。

1974年4月4日シンシナティでのシンシナティ・レッズとの開幕戦の初回一死、走者を置いて、初球低めの直球を叩いて、714号3ランホームランを放ち、ルースの記録に並んだ。

その4日後の8日、本拠地アトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアム(当時ブレーブス本拠地)でのドジャース戦。第3打席、4回二死一塁、カウント1ボールでの2球目、真ん中低めのスライダーをフルスイングした打球は715号2点本塁打となり、ついにルースの記録を破った。グラウンドに立ち続け、大記録を更新したのだ。

試合成立前ではあったが、試合を一時中断してセレモニーがおこなわれた。アーロンは、
「Thank God it’s over.」
と、コメントした。セレモニー途中から降雨があったが、試合はブレーブスが7対4で勝利。周知の事実だが、アーロンが記録を達成したその試合、通常ならば歴史の証人となるはずのコミッショナー、ボウイ・キューンは現場にいなかった。黒人が記録を塗り替えることを快く思っていなかったのだ。

また、同年秋には日米野球で来日し、読売ジャイアンツ・王貞治と本塁打競争をおこない、観衆は大いに湧いたものだ。結果は、アーロンの10対9で勝ち。また、手土産としてスパイクとグラブをプレゼントした。後に、王がアーロンの通算本塁打記録を塗り替えた時、米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出したが、アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表し、祝福した。

アーロンは、1975年からミルウォーキー・ブルワーズに移籍。2年間過ごして、現役を引退した。最後の本塁打755号は、1976年7月ミルウォーキーでの10本目であった。大リーグ通算実働23年間、本塁打数755本は、バリー・ボンズについでMLB歴代2位。また、通算安打数も3771本で、タイ・カッブに次ぐ記録である。

シーズン50本塁打は1度もなかったものの、毎年コンスタントに数字を積み重ね、21年連続オールスター・ゲーム出場、20年連続20本塁打以上、打率3割を14度、40本塁打以上を8度など、アーロンの安定性を示す数字は枚挙に暇がない。大いなる実績をもともなった、なんとも頼もしいタフネスぶりだ。

打者のエリートの勲章といえる3000本安打達成時、かれの長年のアイドル、スタン・ミュージアルの前で打てたことに大感激している。それと、もう一つの偉業ともいえる3000本安打と、500本塁打を記録した最初の選手ともなったことだ(後、ウィリー・メイズも達成)。36歳のときだった。通算2297打点と6856塁打は、現在もメジャー記録として残っている。1982年に、アメリカ野球殿堂入り。

背番号・「44」は、1977年、アトランタ・ブレーブスの永久欠番に指定(ミルウォーキー・ブルワーズの永久欠番にも前年の1976年に指定されていた)。ちなみに、大打者らしくないこの背番号は、フォーティ・フォーと響きが良く、並び数字には名選手ぞろいということで、アーロン本人が希望したものだったらしい。2021年1月、死去。86歳だった。

参考図書;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)