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サチェル・ペイジ伝説(3)

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MLB レジェンド

サチェル・ペイジ伝説(3)

ペイジの投手としての売りは、スピードと、とりわけコントロールにあった。スピードの方はというと、大リーガーのボールをも受けたキャッチャーが彼のボールを受けた感覚では、170キロを完全に越えていたという。しかし、長身のペイジはけっして力いっぱい投げ込むというタイプではなく、長い手と身長を生かした弓にようにしならせるゆったりとしたフォームが特徴だった。

その頃は、シーズン・オフになると黒人リーグと白人リーグのチームが試合をすることは、けっこうあったようだ。が、白人の大リーガーのなかにもペイジと対戦した選手がいて、その記憶が後に彼の評価をさらに高めることになったのだ。
「ペイジの投げる球の、いや、速かった」
そのうちの一人、ポール・リチャードという選手が、後にこう語っている。
「彼は横手から、切れ込んでくる球を投げて来たが、その速さに私は思わず息を飲んだ。ところが、捕手のギブソンはその球を受けるや否やタイムをかけ、ピッチャーズ・マウンドにのぼって、ペイジにこう怒鳴っていたのだ。
『おい、サッチ。チェンジ・アップが必要な時は、俺の方から要求する。まじめにやるんだ。速球で来い』
とな。

もう一つ、ご自慢のコントロールは、常に安定していた。それは練習の賜物であり、練習を重ねるにつれてコントロールに磨きがかかり、フェンスに空けた人の頭ぐらいの大きさの穴に投球を通したり、ケーキの上を覆った砂糖菓子の部分だけを速球で跳ね飛ばしたりもした。

また、たとえば、投球練習でよくキャッチャーの前にハンカチや煙草の箱を置いてその上を通すというパフォーマンスをおこなっていた。観客もそんなパフォーマンスを見るのが楽しみのひとつとなり、彼もそれに対応しハンカチをガムの包み紙に変えるなどして観客の期待に答えていたといいう。それほどコントロールが自慢だったからこそ、豪速球が投げられなくなっても野球を続けていられたのだと、ペイジはいう。

こうして、いよいよ人気は高まり、彼はフリーのプロ野球選手として複数のチームに所属するようになる。なんと同時に10チームと契約していた時期もあったという。なにせ当時のニグロ・リーグには数多くのチームがあったようで、彼はといえば一試合ごとに契約し、ギャラをもらうようになっていた。

そんなわけで、生涯で250チームのユニフォームを着たといわれている。そして、一日に何試合か出場することもあったため、着替えるのが面倒になり、ついには自分だけのオリジナル・ユニフォームをつくってしまい、背中に「PAIGE」とだけ入れて試合に出場するようになったというのだ。ある種ゲスト・スター扱いだったので、顔見世的にちょいと投げて、次のチームの試合へと球場に移動するということも多かったようだ。

卓越した技量を武器に、ペイジは一つのチームに縛られることなく、かなり自分の好きなようにプレーしていた。金銭面でオーナーともめ、よそのチームに出て行った後で、またもとのチームに戻ったかと思えば、一度に複数のチームと契約していたこともあったりもした。

そうした彼のようなタイプの選手は、当時「インデペンデント・プレイヤー」と呼ばれていて、ほかにも彼のような選手はいたようだ。ギャラは大リーガーにも勝るものとなり、金銭的にはメジャー移籍は収入ダウンにつながることになったというのは、皮肉なことだった。

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すみっこ暮らし、名誉の殿堂
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さてこそ、(サチェル・ペイジ伝説 2)冒頭における、ペイジの野球殿堂入りの際におけるコメントには、続きがある。
「私は私の世界に満足していたからだ。私はいろんなところでプレーをし、黒人たちの間でのスターであることに満足していた。私はどこへでも出かけて行った。行ったことのないところなんて、ないのじゃないか。石炭鉱山や刑務所へも行った。そういうところでするのは好きだった。どこへ行っても子供たちがついて来たものだ」
これこそが、ペイジの本懐だったのかもしれない。

しかし、このペイジの野球殿堂入りに関しては、またもや大騒動が待ち受けていた。それは、以前からサチェルが入らぬのはおかしいではないかと、声があがってはいたのだ。そのきっかけが、かれの力量をよく知るかつてのチームメイトのボブ・フェラーと、ジャッキー・ロビンソンの殿堂入りだったのは皮肉だった。たしかに名声だけでは、大リーグ在籍10年以上という規定はかえられない、その対象には入れないのはわかってはいる。

それでも1966年、テッド・ウイリアムズが疑問を投げかけ、1969年、ロイ・キャンパネラが殿堂入りの際抗議にも近い声明をを発した。とりわけキャンパネラは、ニグロ・リーグ時代、偉大なる捕手ジョシュ・ギブソンの控えに甘んじていたのだ。むろん凄さも知っている。
「この名誉を受けるより前に、受けねばならぬ人がいる。ニグロ・リーグでの9年間に私が見た最高の投手と最高の打者のことだ。サチェル・ペイジとジョシュ・ギブソンがその人だ。しかし、二人ともいまだに野球殿堂には入ってはいない」

キャンパネラをはじめニグロ・リーグ出身の選手が顕著な働きをし、現実に活躍している選手がいるにもかかわらず、その母体であるニグロ・リーグの功労者たちを無視することはできないという考え方が、野球関係者の間に広がっていったのも当然だったろう。

1971年、第5代コミッショナー、ボウイ・キューンがついに動いた。それは、10人の特別の選考委員会をつくり、黒人選手、とりわけ1947以前の貢献度の高い選手を選び出し、殿堂入りさせるというものだ。しかし、喜びもつかの間、その詳細を聞くにつけ、はたまた反論の渦が巻き起こった。それというのも、殿堂入りといっても、白人大リーガーたちとは違った場所であって、その地位も資格も別物であることがわかったのだ。

でも、たとえ特別枠といえども、ペイジの殿堂入りはかなったわけが、まだ不十分だったのはゆがめない。マスコミも執拗だったし、世論はもちろんこの問題にこだわった。人種のカベをつくり、黒人選手を大リーグ機構から締め出しはしたが、その償いをジャッキー・ロビンソンの殿堂入りで、その一部のカベをとっぱらった。が、さらにペイジをはじめニグロ・リーグの選手への償いをすべきだというのだ。

キューンは折れた。ニグロ・リーグの選手に対しても、白人大リーガーたちと同等の資格で受け入れる決定をしたのだ。ペイジは正規の資格者として「黒人としては」ではなく、「ニグロ・リーグからはじめての」野球殿堂入りを果たしたことになった。そしてまた、ペイジは新たに発足した特別委員会による推薦第1号となった。

ペイジが40年以上も住んだ街・カンザスシティの「ペイジ・アイランド」と呼ばれる墓地内の一区画に石碑がある。そこには、名前は刻まれて入るが、誕生日は記されていない。生まれたところに、クエスチョン・マークがあり、死亡の年に1982年とある。

 

参考; 「史上最高の投手はだれか」佐山和夫 著、潮出版社 刊