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スタン ザ・マン ;スタン・ミュージアル(1)

mlb batters(Left)
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■■お気に入り名選手; ☆スタン・ミュージアル(その1)☆

Stan “The Man” Musial

「偉大なかれと対戦して、私は幸せ者だ。初対戦は2塁打一本を含む2安打、最後の対戦もまったく同じだった。安定性のある打者だったよ」
と、ウォーレン・スパーンは、こう語っている。1940年、ボストン・ブレーブス入団以来、21年間現役としてプレーを続けたかれは、通算勝利363勝、左腕投手で歴代1位の記録を持っている。そのかれとは、なんと18シーズンも、ライヴァルとしてしのぎをけずったのだ。

そのかれとは、球史に残るカージナルスの英雄、スタン・ミュージアル、その人である。大リーグ・デビューは、華々しいものだった。一昔前、新人で活躍する選手が出ると、
「まるでミュージアルのようだ」
と、いわれたものだった。

上体をかがめた独特のクラウティング・スタイル、チャンスに極めて強い強打者、そしてリーディング・ヒッター7回という偉大な記録を持つ。背番号・「6」はカージナルスの永久欠番である。

22シズーンをも現役をもつとめ、終身打率0.331と輝かしい記録をもっている。むろん3000本安打をはなち、エリート打者の身分証明書をももっている。それ以上に、粗野に振舞う野球選手のなかでじつに紳士的で、つねに笑顔をたやさなかった。

それを誇るかのように、あだ名は「ザ・マン」。当時、エベッツ・フィールドを本拠地にしていたドジャース・ファンがつけた。つねに、無敵の投手陣を抱え、優勝争いをやってのけていたドジャースは、ファンの誇りだった。

しかし、たった一人、スタンだけは、違った。そのかれら自慢の投手陣を、その打撃で叩きのめしたのだ。あまりの凄さに、ドジャース・ファンは感慨深そうに、
「スタン・ザ・マン」
と、つぶやいたのだ。

亜鉛鉱山で働いていたポーランド移民の子として生まれたスタンは、大学進学を希望した父親と真っ向から衝突。しかしながら、母親の説得で父親はついに折れ、かれは念願のメジャーを目指すことになる。

ワルシャワ郊外の農家に生まれた父・ルーカスは、教育らしい教育をうけていない。移民してきたものの英語は話せない。針金製造工場につとめ、もっぱら製品の運搬係だった。2週間で、11ドルの収入。それがすべてだった。ほとんど食うや食わずの生活だった。チェコスロバキア出身のマリーとは、職場結婚。6人の子供をもうけ、スタンはその5番目だった。

そんな父だからこそ、しきりに大学進学を主張しはじめたのだ。スタンは高校では、野球のみならずバスケットも出色だった。そのバスケットボールで、奨学金つきでピッツバーグ大学進学を勧誘されていたのだ。でも、かれ自身は野球で身を立てたいと考えていた。

そんなとき、母・マリーがルーカスに、
「あなたはなぜアメリカに移住してきたの? 」
「そりゃ、ここが自由の国だからだ」
あやしげな英語で、反論。すると、
「そのとおりでしょう。アメリカでは、子供でも自由なんです。大学に行こうが、行くまいが、本人の自由なんですよ」
ルーカスは、一言もなかった。そんな両親だったからこそ、しつけには厳しかった。また、祖母も同居していたが、彼女もまた、しつけにはとりわけうるさかった。スタンは貧困のなかで育ったが、そんな気配はいっさい感じさせなかった。純情で人づき合いもよく、後輩の面倒もよくみた。なにより、紳士だった。

「こんなもったいない勧誘があるのに…」
もうひとり、高校の女性担当教師、ヘレン・クロツ先生も大学進学を勧めていたのだ。けれども、後年スタンが世紀の大打者になり、自分の判断が間違っていたのに、気づいた。25年後のことだ、
「スタン、わたしも年でね。多分、これが最後の野球見物かもしれないわ。わたしのために、今日ホームランを打ってくれませんか? 」
と、無理な注文をした。ちょうどスランプどきで、ホームランは止まっていた。しかし、笑って、うなずいたものだ。そして、試合がはじまると、みごとなホームランをかっとばした。かれはというと、笑いころげて塁をまわったという。



スタン・ミュージアル、本名・スタニスラス。小学校の時、アメリカ式にスタンリー、通称スタンに改名。赤ん坊の頃から、ボールを欲しがったという。母親は半端ぎれを集めては、ボールの形にして遊ばせていたともいう。

14歳の頃、レフティ・グローブや、カール・ハッベルにあこがれ、投手にこだわった。15歳のとき、大人ばっかりの草野球のバット・ボーイになった。ある日、主戦投手がKOをくらい、スタンが救援に出され、6イニングで13三振を奪ったこともあった。

いつのまにか「スタン出場」の声が上がると、小さな移民の町・ドノーラは沸いた。大都市・ピッツバーグの郊外の鉄鋼城下町は、もともとスポーツは盛んだった。とりわけ、アメリカン・フットボールは町中で熱狂した。ところが、スタン一人の出現でちょいと異変が起こったワケだ。

17歳のかれは、マウンテン・ステーツのウィリアムソンに入団。翌年、投手として申し分のない実績を残したスタンは、ハイ・スクール終了時の夏、カージナルスと投手として契約した。それまでも、投げないときは、外野を守って、投打に大活躍。幼い頃から、スポーツ万能、とくに野球はミュージアルのお気に入りのスポーツだったのだ。

■参考;『誇り高き大リーガー』(八木一郎著 講談社刊)