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「フォーダム・フラッシュ」、フランキー・フリッシュ

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「フォーダム・フラッシュ」、フランキー・フリッシュ

「大学出のお坊っちゃんに、なにができるのかな?」
と、監督・マグローは、半信半疑でとにかく試合に出した。対レッズ戦、三塁手として起用。ところが、フリッシュは強烈な打球がイレギュラーにバウンドしたものの、胸でしっかりと止め、一塁に送球したものだ。マグローは、このプレーで、フリッシュをすっかり気に入ってしまった。

1919年、イエズス会系の名門私立大学・フォーダム大学卒業後、ニューヨーク・ジャイアンツへ入団。マイナーリーグを経ることなく、メジャーデビューを果たす。1898年、ニューヨーク市ブロンクスで生まれた。大リーグではめずらしく富裕な生糸貿易商が、実家だ。大学では、野球、サッカー、バスケットボール、トラックの4つのスポーツで活躍。「フォーダム・フラッシュ」(The Fordham Flash)は、かれのニックネーム。

キャプテンに指名されたフリッシュは、3年目の1921年に49盗塁を記録して初の盗塁王となる。打率はこの年初めて3割を超え、それ以降11年間ずっと打率3割以上を維持した。1923年に最多安打、翌1924年にリーグ最多得点をマーク。フリッシュがチームに激しい競争力を加えたことで、1921年からは4年続けてワールドシリーズに出場した。それまで、三塁と二塁の両方をまもっていたが、1923年からは二塁手として定着。

なによりフリッシュは、負けているときでも常にベストをつくしていた。そして、不屈のファイターだった。

1926年のシーズン後、突然のことに、ロジャース・ホーンスビーと引き換えに、投手1人とともにセントルイス・カージナルスにトレードされた。2対1のトレードだった。これが、のち「世紀の大トレード」といわれるものだった。

伏線はあったのだ。1926年シーズン途中に、フリッシュは足を痛めた。休ませてくれともいわずに、プレーを続けていた。対レッズ戦で、捕球ミスをした。マグロー監督はクラブハウスにもどってから、ガミガミと小言をいった。その直後の対カージナルス戦。盗塁があったら、フリッシュがカバーに入る予定だった。走者が走ったので、フリッシュが二塁に入ったら、かれの元の定位置のほうに打球は飛んだ。ヒット・エンド・ランだった。

マグローは気に入らない。打った相手打者をほめずに、もっぱらフリッシュを責め続けた。それも、チームの全員の前で非難した。フリッシュの忍耐は限界を超え、荷物をまとめると、ニューヨークに帰ってしまった。この2週間後、フリッシュはゲームに復帰はしたが、チーム内では、トレードは必至とみられていたのだ。マグローのみならず、フリッシュも自尊心のかたまりだった。

さて、「スポーティング・ニューズ」紙が、1886年、この街・セントルイスで創刊したためもあってか、この中西部の小さな街は、野球が盛んだった。1882年創設の歴史ある球団、カージナルスだ。セントルイス・ブラウンソックス(ブラウンズ)として創設。1892年に、ナショナルリーグには加盟。1899年、改名してパーフェクトズとなったが、1900年から現在の名称、カージナルスを名乗る。

ホーンスビー兼任監督のもとヤンキースを破って、初のワールドチャンピオンに輝いた1926年から、常勝軍団としての階段を登り続ける。かつて選手全員がアグレッシブで泥臭いプレースタイルでファンの心をつかみ、ガス工場の労働者が仕事を終えると真っ黒になっている姿になぞらえて、「ガスハウス・ギャング」と呼ばれるようになった。“ユニフォームを汚せ”という伝統あるスタイルは、いまも生きている。

とりわけ、1930年代のカージナルスは機動力のチームであって、ファイトの塊のようなチームだった。さしずめ親方がフリッシュ、職工長がメドウィックというところかな。ハンガリーの移民の子として生まれ、ナ・リーグ最後の3冠王にも輝いた強打の外野手だ。悪球打ちに定評があった。

ホーンスビーとのトレードできたスイッチヒッターでもあるフリッシュが、盗塁王とMVP獲得と大活躍。1927年には、208安打、打率.337をマーク、自身二度目の盗塁王となった。守備でも補殺、併殺数でリーグ最多を記録するなど、攻守で活躍を見せた。この年に記録した641補殺は、1シーズン補殺数(二塁手)のメジャーリーグ記録である。

31年に、その年107勝をあげた強敵・アスレチックスを破り、2度目の世界一に。新人”火の玉”、ペッパー・マーチンの一人舞台であった。この年のワールドシリーズを制したカージナルスが、「ガスハウス・ギャング」時代の全盛期であったことはよく知られている。



後年、大監督となった若きレオ・ドローチャーが、生意気盛りの遊撃手として在籍していた。その回想録に寄ると、こうだ。
「ある年のこと。ニューヨークに乗りこんだとき、雨で湿ったグラウンドで何試合かを戦ってきたので、ユニフォームは汚れているといったような生易しいものではなかった。特にひどかったのは“飛び込みおっとせい”と呼ばれていたペパー・マーチンと、フランキー・フリッシュのふたりだった。ヘッドスライディングの発明者であるマーチンが三塁に飛び込むと、かれのヘッドスライディングを誰よりも早くまねたフリッシュも、二塁ベースへ頭から飛び込むのだった」
ついで、
「『ワールド・テレグラム」紙にウィラード・マリンの書いた漫画がのこっているのを見た。町の外れに、二つの大きなガスタンクが立っている。そして人相のよくない野球選手が数名、バットではなしに棍棒を肩に町中へと進んでいる。題はこうだった。“ガスハウス・ギャングの殴り込み!”」

1934年、ニューヨーク・ジャイアンツが後半崩れたため、シーズン最後の日に優勝が決まった。フリッシュ兼任監督に率いられた”荒くれ集団”、このときのラインナップは実に豪華なものだ。

1番・三塁手、Pepper Martin。
2番・右翼手、Jack Rothrock。
3番・二塁手、Frank Frisch。
4番・左翼手、Joe Medwick。
5番・一塁手、Rip Cllins。
6番・捕手、Bill De Lancey。
7番・中堅手、Ernie Orrsatti。
8番・遊撃手、Leo Durocher。
9番・投手、Dizzy Dean。
そのうち、フリッシュ、メドウィック、ディーン、そして、ドローチャーも4人が殿堂入り。ペッパー・マーチンにも、可能性はある。ディジー、ポールのディーン兄弟のWエース、フリッシュがプレイング・マネージャーを務め、マーチンが三塁にコンバートされており、”ダッキー”ジョー・メドウィクも、もちろん名を連ねていた。ピッチング・スタッフには、1920年代に7年連続奪三振王に輝いた43歳のダジー・バンスもいた。

さて、その年のワールドシリーズでは、デトロイト・タイガースを4勝3敗で撃破。タイガースはエースにスクールボーイ・ロウを擁しキャッチャーは史上最高の捕手といわれるミッキー・カクレーン、チャーリー・ゲーリンジャーが二塁を守り、この年最初のMVPに輝いた若き日のハンク・グリーンバーグが名を連ねていた。タイガースもすごい顔ぶれだったし、そのシーズン101勝を上げていたのだ。

しかしながら、そのワールドシリーズは、大荒れだった。メドウィクが果敢な走塁を見せタイガースの三塁手・マーヴ・オーウェンを薙倒し、大乱闘。メドウィクがレフトの守備位置につくと、デトロイト・ファンが怒り狂って、ゴミをグラウンドに投げ入れて収拾がつかなくなった。ランディス・コミッショナーは予防策として、メドウィックを退場させて、試合は再開された。ここで、生意気な若きドローチャーが、
「なんでもないよ、ジョー、気にするな」
と、ぬけぬけとカッカしている老練メドウィックにいいはなったもんだ。

エースとして台頭したディジー・ディーンが30勝でMVPとなり、弟のポールとともに活躍。デトロイト・タイガースを破り、3度目のチャンピオンとなった。その後も42、43、44と3連覇を成し遂げ、そして46年もワールドシリーズを制覇。チームは黄金期を迎えた。
この後、1937年のオールスターゲームでディジー・ディーンがアール・アベリルの打球を足の親指に受けて骨折してから、スタン・ミュージアルの登場まで暫しの低迷期に入ることとなる。

フリッシュは1930年代の「ガスハウス・ギャング」と呼ばれていたチームを牽引し、1928年以後4度ワールドシリーズに出場する。1933年以降は監督兼任選手となり、1934年のワールドシリーズ進出は自らの指揮によるものである。選手としては1937年まで出場、通算打率.316、本塁打105、打点1242。そして、通算安打数2880本、これが長いことシッチ・ヒッターの通算最多安打記録になっていた(残念ながら、ピート・ローズにうばわれた)。

翌年からカージナルスの監督に専念。しかし、1938年はチームの成績が不振で、シーズン終盤で監督の座を退く。

フリッシュはパイレーツの監督を退いた翌年の1947年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。さらに1949年からはシカゴ・カブスの監督をつとめたものの、在籍時のチームの順位は毎年7位から8位とまったく振るわなかった。

球界を離れてからは、ラジオの実況放送を何年かつとめ、ジャイアンツのコーチもしていたが、1956年に心臓発作を起こして、それらの活動も制限するようになっていた。その後フリッシュは、アメリカ野球殿堂のベテランズ委員会の委員長職を務めた。1973年、フロリダでの委員会の会議から、車でロードアイランド州へ戻る途中に交通事故を起こし負傷、1か月後にデラウェア州ウィルミントンで死去した。74歳。