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ディマジオこそが、古今東西、世界最高の選手に決まっとろうが! ※(2)

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ディマジオこそが、古今東西、世界最高の選手に決まっとろうが! ※(2)

Joe DiMaggio

ディマジオは純情で、シャイな男だった。そのじつ、カメラを嫌い、マスコミをも嫌ってもいたようだ。

そのくせディマジオ自身もまた、人々の注目からはずれるということには慣れていなかった。それは、むろんマリリンも同じだった。知的な会話はあまり得意ではなかったディマジオと、大の勉強家だったマリリンとでは、ふだんの会話からして、かみ合う部分がなかったともいわれている。それでも、マリリンとディマジオは、ロサンゼルスの質素な教会で式を挙げた。

しかし、やはりというか、悲劇は新婚旅行先の日本においてはじまった。読売新聞社の招待で、新婚旅行を兼ねて来日したが、このときから関係にヒビが入ったといわれている。ともあれ、ディマジオは、それまで何回か日本を訪れていて、人気は絶大なものだった。ところが、皮肉なことに注目を集めたのは、マリリンに集中したのだ。

それにまた、マリリンが、予定には入っていなかった朝鮮戦争に従軍している兵士たちの慰問を引き受けたことを、ディマジオがこころよく思わなかったためともされる。

やがてマリリンは、映画・『7年目の浮気』の撮影に入った。地下鉄の通気口での、彼女のスカートがまくれ上がる、あの有名なシーンだ。撮影のさい、ファンを避けるため、真夜中におこなわれた。それでも多くの野次馬が集まり、スカートがまくれ上がるたびに、大きな歓声があがった。ディマジオは、それを遠くからジッと観ていて、ついには泊まっていたホテルで、二人は大ゲンカをした。

そんなこんなで、マリリンが離婚申請をすると発表したのは、その2週間後のことだった。結局のところ、まさしくウワサどおり9ヶ月で離婚してしまった。

それから7年後のこと、あのマリリンのナゾの死。1962年8月、遺体となって発見されたとき、その場に立ち会ったのは、ディマジオだった。葬儀をとりしきり、見世物となるのをこばんだのも、ディマジオだった。葬儀では、泣きくずれ、
「愛してる、愛してる、愛してる」
と、なんども別れを告げたようだ。そして、黒い花瓶にバラを飾り、
「1週間に2度…、いつまでも」
と、彼女の墓に新しい花を届けるようにしたのは、ディマジオだったのだ。それは、かれの死後も有志によって、それは続けられている。

1914年11月25日、ディマジオはシチリア移民で、貧しい漁師の9人兄弟の8番目、5男4女の四男坊として生まれた。兄たちの影響で、小さい頃から野球をはじめ、セミプロ、マイナーでもその才能はグンを抜いていた。

そのサンフランシスコ・シールズ(トリプルA)時代の33年に、61試合連続安打を記録を残している。なお、兄・ビンス、弟・ドムもメジャー・リーガーとなり、40、41、42、46年の4シーズンは、三兄弟のプレーが見られた。

その初年度をのぞいて、打率は3割台、4年目になると、本塁打は34本。守備位置は遊撃手で入団も、外野手に転向していた。パイレーツのパイ・トレーナー監督が惚れ込んだが、故障持ち(ヒザ)のため、フロントがしぶり、結局のところ、
「故障があっても、この成績は立派だ」
と、ヤンキースが契約。1936年のことだ。ディマジオ、22歳の時だ。

1939、40年に首位打者、1937、48年には本塁打王、1941、48年には打点王、1939、41、47年にはMVP、そしてベストナインは8回選ばれた。輝かしいばかりの成績だ。生涯打率は、.325。ディマジオは、史上初の年俸10万ドルの選手となった。13年間、ディマジオは最強プレーヤーの地位を保ち続けた。

しかしながら、長年のツケがまわってきたのか、踵の軟骨のケガで苦しみ、1949年、ついに手術を受けはしたが、回復はまったくといっていいほどはかどらない。そんな毎日だった。あげくには65試合に欠場して、引退の危機にもさらされた。



だが、シーズン半ばの6月末のこと、レッドソックスとの首位決戦にボストンに急行し、
「ラインアップに入れてくだい」
と、ステンゲル監督に頼み込んだ。が、
「8ヶ月間もボールに触れてないんだよ。そんなのムリだ」
と、いったんはしりぞけたが、ついにはディマジオに押し切られてしまった。ところが、3連戦で4本塁打、9打点をマーク。宿敵・レッドソックスを蹴落とし、この年、ヤンキースはペナントを獲得した。そして、ディマジオは、残りのシーズン、わずか272打数だったが、打率・346厘、14本塁打、67打点と奇跡の復活を果たしたのだ。引退する3年前のことだった。

同年代に、同リーグには、テッド・ウィリアムズが、ナショナル・リーグには、スタン・ミュージアルがいて、ともに非凡な打撃記録を残し続けていたが、それ以上に野球ファンの関心は、いつもディマジオの上に注がれていた。1951年に引退するまで、”ジョルティン・ジョー”、”ヤンキー・クリッパー”の異名をとり、その名をとどろかせたものだ。

メジャーの数ある記録のなかで、もっとも破られにくい記録はといえば、カル・リプケンjrの「2632試合連続出場」と、ジョー・ディマジオの「56試合連続安打」をまよわず挙げるだろう。それまでの記録が1922年のジョージ・シスラーの41試合、また通算安打数・4256安打のメジャー記録保持者ピート・ローズでさえ44試合。いかにケタ外れの大記録であるかがわかる。

しかし、1941年7月17日のインディアンス戦で、K・ケルトナー三塁手のファインプレイでなどがあって、スミス、バグビー両投手に抑えこまれ、記録が途切れた。それでも、記録が途絶えた翌日から、ふたたび16試合連続安打するなど、その精神力は図抜けていた。

最後に、親交のあったヘミングウェーは、名作・「老人と海」のなかで、
「彼は、メジャー・リーグのことを考えた。彼は、思い出す。今日は、ニュヨーク・ヤンキースと、デトロイト・タイガースの試合がおこなわれているはずだ。“大ディマジオ”は、踵のケガをかかえているのに、それをこらえて、最後まで勝負をやり抜く男だ。オレだって、負けちゃいられねぇ」
とばかり、老人の4日間にわたるカジキマグロとの死闘。その老人の心の支えとして、ディマジオが登場するのである。

※「記者魂」より;MWA賞最優秀新人賞受賞 ブルース・ダシルヴァ著 青木千鶴訳 早川書房刊。

★参考図書;「誇り高き大リーガー」(八木 一郎著 講談社刊)。