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ナショナル・リーグ最後の4割打者、ビル・テリー

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ナショナル・リーグ最後の4割打者、ビル・テリー

ビル・テリー;Bill Terry (William Harold Terry)は、1923年から1936年までニューヨーク・ジャイアンツの一塁手として活躍し、左投げ左打ちの選手として1925年から1936年までの12年間で11シーズンは3割を打ち、1930年には打率.401で4割を打った(この年はシーズン最多安打254本)。これ以降、ナ・リーグでは4割打者は誕生していない。ニックネームは、”Memphis Bill”(メンフィス・ビル)。

テリーは、無名のマイナーリーグ球団からメジャーリーグに昇格。
「努力と忍耐がすべてだ」
と語っている。また、テリーの指導を受けた選手からは、
「常に自分自身に厳しく、選手にも厳しい要求をしてきた」
という証言が残されてもいる。テリーには、野球への深い愛情があったからこそであった。

200本安打以上6回と、通算打率3割4分1厘と打撃成績が目立つビル・テリーだが、守備でも最高守備率、最多ダブルプレー、最多刺殺など何度も獲得。堅実なフィールディングは、この時代最高の一塁手と評価されている。ついでながら、1929年のこと、ダブルヘッダーの対ドジャーズ戦で、2試合で計9安打6打点を記録したこともある。

1932年からは、プレーイング・マネージャーとしてチームを牽引。1933年、ワールド・シリーズを制覇。1954年には野球殿堂入りを果たし、背番号[3]は、ジャイアンツの永久欠番に指定されている。

1898年、ジョージア州アトランタ出身。早くに両親が離婚したため、15歳で働きに出た。のち、ジョージア州のマイナー、ニューナン・コータスと契約。17歳の時だった。当時は、長身を生かし投手だった。ニューナンでは7勝1敗、ERA0.60だったが、ドゥザンでは0勝2敗。以後2年間マイナーでプレーし、通算で33勝22敗だったがMLBから声はかからなかった。

メジャー昇格をあきらめて、20歳から23歳までは勤務していたスタンダード石油のチームでプレーした。すると石油会社のあるメンフィスのサザン・リーグの球団・オーナーがテリーに注目し、1922年にジャイアンツのマグロー監督に紹介した。これが縁で年俸5000ドルでジャイアンツに入団し、22年は投手兼任で9勝9敗ERA4.25だった。が、翌年から一塁手に専念。好成績を上げ、1923年にMLBに昇格。

全盛期は、30歳を過ぎてから。スイングが早く、左翼から中堅に鋭い打球を飛ばした。広いポログランドでなければ本塁打王をとっていたという声もあった。その後、4割を打つほどの打者に成長したが、一方でマグロー監督との確執も生じていた。そもそもの発端は、昇格後、マグローは将来の大打者に育てるため、投手には使わないようにとコーチに指令したのだ。

マグローのその即断が、投手に生きがいを感じていたテリーが後年、監督に就任するとき、マグローとのちょっとしたいさかいがあったという。監督を引き受ける条件として、お飾りではなく、チーム内のことに一切口を出さないでくれといった。

マグローはテリーの指導者としての資質を高く買い、1932年のシーズン途中、病気で59歳で監督の座を降りる際に後継者に指名したのが、当時34歳であったビル・テリーであった。しかしながら、マグローとテリーは、チームメイトとして、そして監督と選手として、多くの時間をともにした。マグローは、テリーを「私の後継者」と自負しており、テリーはマグローを「野球の神様」と尊敬もしていた。マグローの指導を受け、監督としての手腕を磨いていったのだった。

テリーの監督就任は、ジャイアンツファンから歓迎された。テリー自身も、監督就任に意欲を示し、
「マグローの遺志を継ぎ、ジャイアンツをふたたび強豪チームに導きたい」
テリーは、選手と対等な立場で、チームの目標に向かってともに戦う姿勢を貫いた。それと選手の個性を尊重し、それぞれの能力を最大限に発揮できるようにも導いた。

1932年から、チームを引っ張りながら37歳までプレー。その後4年間毎年3割を打ちながら、監督としても見事な手腕を発揮した。チームはナショナル・リーグを2回制覇し、ワールドシリーズでは1933年にヤンキースに敗れたものの、1934年と1936年にはそれぞれセントルイス・カージナルスを破ってリーグ優勝した。テリーは、マグローの黄金時代を継承し、ジャイアンツをふたたび強豪チームに押し上げたのである。



さて、1934年シーズン前のこと、テリーは絶頂にいた。そんなとき、人は往々にして落とし穴にはまる。テリーもそうだった。

その前年、リーグのペナントを獲得したうえ、ワールドシリーズでもセネターズを降し、ワールドチャンピオンに輝いていた。しかも、あの不朽の名監督・マグローの後をうけたテリーは、フル・シーズン監督をやって優勝したのである。1933年、テリーは最高の監督だったし、この34年再度優勝を導くことはできないという理由は、どこも見当たらなかったのだ。

事実、2連覇はできたはずだ。ところが、シーズン前の記者会見でドジャースの選手、熱烈なファンをイタぶッたのである。記者の一人が、突然だったがなにげなく質問した。
「ドジャースはどうですか? 」
すると、テリーはすかさずこう答えたのだ。
「ドジャース? ドジャースはまだナショナル・リーグにいるのかね? 」
ドジャースの選手、ファンたちは、この侮辱的な一言に怒り狂ったのだ。いつの日か後悔させてやると、ドジャースの選手、ファンたちは胸の中で呪いの言葉を飲み込み、痛いほどうずいていたのだ。

それが、やってきたのだ。1934年のシーズン最後のウィークエンドだった。ジャイアンツは2位・カージナルスに6ゲーム差をつけ首位独走と思われたが、カージナルスの怒涛の進撃によって、シーズン終了まで2ゲームを残し、ジャイアンツにならんでしまった。両チームともに、それぞれ地元球場で最後の2試合を残していた。

それってんで、ドジャース・ファンが大挙してポロ・グラウンドにやってきた。ドジャースは、このとき6位。順位なんてお構いなし、いまこそテリー監督にしっぺ返しをするときなのだ。試合は、雨模様のなかではじまった。中盤にドジャースが先制、ジィアンツも1点を返したが、9回ドジャースが2点を追加して、ドジャースが5−1でモノにした。一方、カージナルスはレッズを破り、ジャイアンツに1ゲーム差をつけた。

最後の試合、ポロ・グラウンドにはドジャース・ファンに占拠されたかのように押し寄せたのだ。すべての野球ファンの目は、ドジャースの戦いにそそがれていた。ジャイアンツ先制も、追いつき追い越せの厳しい戦いが続いた。ついに延長線に突入。

ドジャースは攻めて、一死二、三塁。ジャイアンツは、たまらず”王様カール”ことカール・ハッベルを投入。満塁策をとる。おあつらえむきの併殺打で、ピンチは終わったかのようにみえたが、これを遊撃手がフアンブル。走者がホームインして1点リードされ、さらに外野への大きな飛球と、タイムリー・ヒットがでて、2点を追加された。そのウラ、後がないジャイアンツは0点に抑え込まれ、8−5で負けた。セントルイスでは、カージナルスがレッズを9−0で下していたのだ。ドジャースというチームは、ナ・リーグにいたどころか、にっくきジャイアンツの2連覇の夢をはばんだのだ。

テリーは引退後も約10シーズン、1941年までチームを率いる。監督として3度のリーグ優勝、ワールドシリーズ制覇1回、監督としての823勝661敗。史上最高のプレイングマネージャーとの声もあった。選手としての通算成績は打率3割4分1厘、2193安打、154本塁打、373二塁打、113三塁打、1078打点。

引退後もジャイアンツの球団幹部としてチームに貢献し、生涯を野球に捧げた。1954年殿堂入り。自身もベテランズ委員会の委員として殿堂入り選手の選考にかかわるが、自身が所属したジャイアンツの選手を多く推挙したという批判があったのも事実。

その後、終生の地となるフロリダ州ジャクソンビルに移住。以後、同地にて自動車販売業を営むほか、1958年にミルウォーキー・ブレーブス傘下のAA級マイナーチーム、ジャクソンビル・ブレーブスを買収・誘致した。チームが解散する1961年まで、オーナーを務めた。1989年、フロリダ州ジャクソンビルで90歳で死去。