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愛すべきおせっかい屋、トミー・ラソーダ

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愛すべきおせっかい屋、トミー・ラソーダ

 

“I bleed Dodger blue and when I die, I’m going to the big Dodger in the sky.”

「オレの体を切って見ろ。ドジャーブルーの血が流れるだろう」
ラソーダといえば、この言葉が有名。日米問わず、多くの関係者に慕われる本物のレジェンドだった。ドジャースの監督を21シーズンにわたって務めた。2度のワールド・シリーズ優勝を含め、リーグ優勝4回、地区優勝8回、通算3038試合で歴代22位となる1599勝を記録し、前任の名将・オルストンとともにドジャースの最盛期を築いた。退任後も、球団副社長やオーナー特別顧問として「球団の顔」でもあった。

1944年にフィラデルフィア・フィリーズに入団し、1945年にフィリーズと契約してD級コンコード・ウィーバーズに参加した後、1947年までの兵役を終えて1949年からブルックリン・ドジャースに移籍したのが、左投手としてのラソーダがドジャースの一員となった第一歩。

56年からはカンザスシティ・アスレチックスでプレー、ニューヨーク・ヤンキースに移籍。ヤンキース傘下のAAA級デンバーでラルフ・ハウク監督の薫陶を受けたことが、ラソーダにとって大きな転機となった。
「選手たちに人として接すれば、彼らはスーパーマンのようにプレーするだろう」
と教えた。

メジャーリーグでは3シーズン、通算26試合で0勝4敗、防御率6.48という数字が残っているだけ。その後、ある選手の席をつくるためにマイナーに降格された後に放出されたが、その選手の名前は史上最高の名左腕投手サンディ・コーファックスだ。それで、
「コーファックスのような投手だけが、自分を押し出せた」
と、冗談をいっていた。

そんな忍耐の人、ラソーダ。イタリア系移民だった。ペンシルヴァニア州モリスタウンで育った。もう熱烈な野球ファンであった。12〜3歳の頃、志願して横断歩道監視員になった。報酬はといえば、メジャーリーグの試合見物だったのである。待ちに待った日がやってきた。尼僧とちびっ子たちは、シャイブ・パークに乗り込んだ。フィリーズの対戦相手は、ジャイアンツだった。

試合が終わる直前、ラソーダたちはスタンド下の通路ぎわに陣取った。ここに、ジャイアンツの選手たちがどやどやとやってくると、ある選手に、
「サインしてちょうだい」
といったら、
「邪魔だ、坊や」
といい残し、さっさと行ってしまった。後年になって、その話をすると、
「信じられなかった」
と、その衝撃の大きさに涙することさえあった。その選手について、
「プログラムをみて、背番号と照らし合わせ、ジャイアンツの外野手・バスター・メイナードと名前を知った」

何年かが過ぎた。成長したラソーダは、ドジャースのファームの有望な若手投手になっていた。ジョージア州でのオーガスタ・ヤンキースとの開幕ゲームのマウンドにあがった。最初の二人を打ち取り、三人目の、でっぷり太ったベテランの右バッターをじっと見つめた。

そのベテラン選手を紹介する場内放送もあって、ラソーダは凝然となった。
「まさしくあの男だった、あのバスター・メイナードだった」
1球、2球、そして3球目と、頭、膝と、つづけて顎の下をめがけて投げ込んだ。もはや意図は明らかだった。メイナードはバットをかなぐり捨てると、マウンドめがけて突進した。すぐさま両軍選手が、グランドにとびだして二人を引き離した。

試合後着替えていると、入口に面会人がきているという。見れば、おだやかだが怪訝そうな表情を浮かべたメイナードだった。
「なあ、おい。おまえさんにどこかで会ったことがあるかい」
「そうじゃないけど…」
と答えた。
「じゃあ、どこかでおまえさんと対戦したことは?」
「ないよ」
「じゃあ、なんだっておれの首をもぎとるような球を投げたんだ?」
ラソーダはおおきく両手を広げて、
「あんたはおれにサインをしてくれなかったじゃないか」
ラソーダは毎春、新人たちにこの話を聞かせ、
「どんなときでもサインを請われたら拒むな」
と、真剣な顔でいう。
「わからんもんだ、野球の世界では、なにがおこるかわからん」

前後14年にわたる現役生活を1960年に終えたラソーダは、ドジャースの元二塁手で当時は球団のスカウト部長を務めていたアル・キャンパニスによってスカウトに採用され、1965年にルーキー・リーグのポカテッロの監督に就任してから指導者の道を歩みはじめた。

人望があるところを見込まれ、ドジャースのスカウト、傘下マイナーチームの監督などで経験を積んだ。トップチームの三塁ベースコーチなどを経て、76年9月に監督に就任した。前任者はむろん、ドジャース監督歴23年間のウォルター・オルストン監督だ。かれの愛弟子に当たる。監督に赴任した当時、ドジャース専担アナウンサーであるビン・スカリーが、
「アルストン監督の後ろを引き継ぐことが負担にならないか」
という質問を投げると、
「私の後ろを引き継ぐ誰かが心配されるだけ」
と、好意的に答えた。

当時、オーナーだったピーター・オマリーは、FAより新人の重用をより重視し、それに合わせてラソーダも新鋭を重用しながら着実にチーム戦力を強化させた。 これは1992年から1996年まで新人王をすべてドジャースが独占。ラソーダが名門ドジャースの監督を長きに渡って務められたのは、その人心掌握のうまさであろう。マイナー・リーグでの選手経験や、スカウトとしての知見も活かし、短期的な成績のいかんを超えて積極的に若手選手を起用したのは、ラソーダの特徴の一つだった。

ラソーダは現役時代から、面倒見のよい兄貴分のような存在だったという。ドジャースのスカウト、マイナーリーグのコーチ、監督、そしてメジャーのコーチ、監督と、野球人としての第二のキャリアを駆け上がったが、ピーター・オマリーが掲げるファミリー経営のビジョンにマッチした。

コーチ時代、ラソーダはシーズンが終わると、きまって中米に飛びウインター・リーグに参加し、監督をつとめた。ラソーダ学校と評判は上々だった。1974年、ここに一人のある投手がいた。バート・フートン、カブスの一軍半的な存在だった。テキサス育ちの24歳、球は速いが、制球力がない。ラソーダは他球団の選手とは承知のうえ、親身になって指導した。決め球はナックルボールだが、ダウンワード回転が大きくかかってしまうのだ。ラソーダは、
「それもおもしろいじゃないか」
と意に介せず、磨きをかけるようさとした。帰国すると、キャンパニス副社長に呼ばれ、
「カブスがフートンを放出してもいいという。どう思う?」
ラソーダは、言下に答えた。
「取ってください」
先発ローテーションに入りし、75年に18勝、76年は11勝と、77年には対ヤンキース戦ワールドシリーズ第2戦で勝利投手となって貢献した。愛すべきおせっかい屋の「予期せぬ報酬」だった。



「日本のみなさんに伝えてくれ。私にヒデオ・ノモをくれて、どうもありがとう」
と、ラソーダ。大きな身ぶり手ぶりを交え、野茂に片言の日本語で話しかけていた。

日本人メジャーリーガーのパイオニアになった野茂英雄にとって、「ドジャースの父」は2人いた。1人は二代目オーナーだったピーター・オマリー、そしてもう1人がラソーダだ。日本の球界を追われるように米国に移籍した野茂を、ラソーダは、
「ノモは私の息子だ」
といって、かわいがった。メジャーデビューした当時に監督として後ろ盾となり、球団だけでなく球界に大きな影響を与えた。マイナー契約でドジャース入りした時、1995年5月の初登板からなかなか勝利を挙げることができなかった。しかし、ラソーダは野茂を辛抱強く、先発ローテーションで起用し続け、ついに登板7試合目にして、野茂はメジャー初勝利を挙げた。勝利の瞬間、ラソーダがベンチで野茂に抱きつき、勝利を喜ぶシーンは、日本でも何度も繰り返し放送された。

そこから野茂は勢いづき、6月は先発登板した試合で6連勝を挙げた。そして初勝利からわずか1か月後、野茂はルーキーながら、オールスターに選出され、先発マウンドを任されたのである。「トルネード投法」の野茂は、同じくスクリューボールを武器に、個性的な投球フォームだった伝説的左腕として知られるメキシコ出身の故バレンズエラの再来ということで、「ノモ・マニア」と呼ばれるブームを全米に巻き起こした。

ドジャースは、日本と長くそして豊かな歴史がある。ピーターの父ウォルター・オマリーと、日米の野球交流に最も貢献した日本人の1人・アイク生原からはじまった。残念なことに、野茂のデビューを見ることなくアイクさんは逝去、享年55歳。

ブルックリンからロサンゼルスに本拠地を移したのは、ウォルター・オマリーだった。ニューヨーク在住の一介の弁護士だった。数社の一流企業の顧問弁護士ををつとめ、独自の情報網を駆使し株に投資。すべて的中、あとは雪だるま式に資産は増え続けていった。そのうち、ドジャースを買い取ったのだ。

ラソーダのドジャースに対するチーム愛は相当なものだったが、野球そのものに対する愛情もまた格別だった。あまりの偏愛ぶりに、ある日妻・ジョー夫人が思わず問い質した。
「私、思うんだけど、あなたは私よりも野球の方が好きよね?」
ラソーダは、あまり迷うそぶりもなく、
「それは確かだと思う」
と答えた。
「でも、フットボールやホッケーよりは、お前のことを愛しているよ」
これは、正確にはラソーダが話したジョークで、実際にこのようなやり取りがあったかは定かではない。だが、この持ちネタが今も語り草になるほど、ラソーダの野球愛は有名だった。ある時、
「そんなに熱意を込めて野球に打ち込んで、燃え尽きることはないのですか?」
と、記者に聞かれたラソーダは、
「好きなことをしているのにどうして燃え尽きるんだ? 君はかわいい女の子とキスするのに飽きたりするのか?」
と答えている。

監督を退任した後も球団副社長や最高顧問を歴任するなど、経営権がオマリー家を離れてからも、ドジャースの象徴として球界から尊敬を集め、1997年に野球殿堂に選出された。

「私は死んだあとも、ドジャースのために働き続けたい。私の墓石には毎年、その年の試合日程を刻みつけてほしいと思っている。そうすれば、私の墓参りに来た人は墓石を見て、その日のドジャースはホームゲームをやっているか、ロードゲームに出ているか、ひと目でわかるだろう」
ラソーダの情熱と、愛をもっともよく表現している言葉だ。

1996年6月、ラソーダはシーズン中に心臓発作を起こした。医師に直ちに監督職を辞めなければならないという警告を受けて1ヶ月後、監督から退いた。2020年11月、心臓疾患で病院に入院したが、 2021年 1月6日に状態が好転して退院したというニュースが伝えられたが、翌日、心肺停止症状で病院に移送中のことだった。享年93歳。幸いにもドジャースがわずか2ヶ月前2020年ワールドシリーズで優勝を決め、監督在任後、なんと30余年ぶりにチームの優勝をふたたび現場で見守ったのが救いだった。