「キラー」こと、ハーモン・キルブリュー
Harmon Killebrew
高校時代は、野球の方からは勧誘がかからなかった。野球、フットボール、バスケットボールに親しんでいたがどれも出色だった。とりわけフットボールでは、クオーターバックをつとめてい、オレゴン大学から奨学金を支給するからと、しきりに誘われていた。
野球のスカウトたちはというと、彼の身長、体重の数字を見て、これは野球向きじゃないと早合点し、プレーを見に行くことさえもしなかった。たしかに豆タンクのような身体つきで、178cm,98kgだった。それに、数字以上に横幅があったのだ。ただ、キルブリュー自身は野球により大きな魅力を覚えていたのたのだ。
1936年6月29日、アイダホ州ペイエット郡ペイエット市の生まれ。父は市の保安官を務めるハーモン・キルブリュー・シニア。かつてのカレッジフットボールの選手だったこともあり、四男坊のキルブルーのみならず、兄弟全員学生スポーツに親しんでいた。モルモン教徒でもある。
ここに、野球狂のアイダホ州選出の上院議員ハーマン・ウエルカーが登場する。アイダホ州の高校生の投手をみつけ、パイレーツに紹介し、大活躍することになった。この話を耳にしていた旧知のセネターズのグリフィス・オーナーが、世間話で、
「アイダホ出身者でいい選手がいたら紹介してくださいよ」
と、声をかけたら、ウエルカー上院議員は、
「うん、心がけるよ」
と、気軽に答えたものだ。グリフィス・オーナーはほんの立ち話程度のつもりでいったものだから、このやりとりはすぐに忘れてしまっていた。ところが、1953年の夏のある日、上院議員から、
「クラーク、この前の約束だがね、ペイアットにいい高校生がいるんだ。お宅のスカウトを派遣してくれないか」
と、電話があった。数日後、オーナーは監督の経験もあるブルージュというスカウトを送り込んだ。オーナーはそれほど期待はしていなかったが、そのころブルージュは目の前で繰り広げられた打棒に釘付けになっていたのだ。3試合を見た。12打数11安打、うち三塁打3本、ホームラン4本がふくまれていた。
「オーナー、すごいんです。驚きました。ただ、オレゴン大学のフットボール部から勧誘されています。いい条件を出してください。とにかく、すごいんです」
翌日、早くもセネタースと契約をかわした。17歳だったが、当時としては破格の金額3万ドルだった。契約金は高くはなかった。豪快極まるホームランで、たちどころに万年Bクラスだったセネターズのアイドルとなった。あだ名は、名前をもじって、「キラー」と親しまれた。しかし、ニックネームとは対照的に、穏やかな性格の選手で、現役生活の中で退場経験は一度もない。
当時MLBにあったボーナスルール(※)の適用を受けて、契約からわずか4日後、メジャーデビューを果たした。初日は代走での出場だったという。その後、対フィラデルフィア・アスレチックス戦にて初安打。初本塁打は翌1955年、デトロイト・タイガース戦でだった。 しかしながら、ボーナスルール適用の2シーズン、キルブルーは93打数34三振、打率.215、4本塁打と力不足は否めず、三塁の守備においても不安を残した。
ボーナスルールの適用が終わった1956年より、キルブリューはセネタース傘下のマイナーチームから始動することとなる。1956年は5月の時点でセネタースに昇格するが、打率.115と結果が残せず、ふたたびマイナーに降格。1957年と、1958年シーズンのほとんどはマイナーチームで過ごし、ケガの補充要員としてセネタースに昇格することはあったが、トータル22試合しか出場していない。
だが、マイナーで3年間鍛えられたこともあり、迎えた1959年シーズン、セネタースの正三塁手だったエディ・ヨーストがデトロイト・タイガースに移籍し、またカルビン・グリフィスオーナーの英断でキルブルーを後釜に据えることになり、キルブリューは正三塁手としてプレイすることになった。
これが奏したのか、5月1日から17日にかけて、キルブリューは5本の本塁打を放つほか、5月12日の試合では初の1試合5打点を記録するという固め打ちをやり、前半戦終了の時点で28本塁打を放っていた。同年のオールスターゲームにも初出場し、後半戦も14本塁打を放ち、終わってみれば42本塁打を記録。初のアメリカン・リーグ本塁打王を受賞した。
キルブリューのバットのスイングは、軽い上向きのスイングだ。かれはこれで左翼まで116mあったグリフィス・スタジアムの外野席を越し、場外まで持っていっている。1962,63,64年にホームラン王のタイトルをとっている。しかし、65年頃から、キルブリューは軽い下向きの打撃スイングに変えている。というのも、当時の監督サム・ミーリーに、
「昨年きみの打率は2割7分だった。もう少し3割近く上げられないか? 」
といわれたとき、
「カットダウンするスイングにすれば、ホームランは減り三振も減りますが安打は増えると思います。そのほうがチームのためにいいというなら、そうしましょう」
と答えた。監督が、
「そうしてくれ」
というので、キルブリューは切り替えた。果たせるかな、彼の予言どおりなった。これぞ、プロ。正真正銘のプロだ。
キルブリューの放ったホームランの数は、22年間の現役生活で573本。現メジャー史上歴代12位だ。当時のアメリカン・リーグだけに限っては、引退当時ベーブ・ルースに次ぐ堂々たる記録であった。14.2打数に1本の割合という本塁打率はベーブ・ルース(11.8打数に1本)にひけをとらない。さらに彼は、ルースの11シーズンには敵わないが、年間本塁打40本以上のシーズンを8回も体験している。元同僚のアリソン外野手は、
「高々と舞い上がる、恐怖のホームラン・ボールが場外へ消える光景ほど、ビューティフルなものはなかった」
という。
通算打率は2割5分6厘と低かったが、こんな低打率なのに出塁率は極めて高かった。四球の多さだ。リーグ最多四球も4回記録。’69年などは、49本塁打、140打点、145四球で、出塁率が4割2分7厘。打率が2割7分6厘にすぎなかったことを思えば、これはほとんど驚異的な数字というべきだ。守りは、一塁手としての出場が最多だが、三塁手や外野手としても多くの試合に出場している。
1960年シーズンはケガで出遅れたこともあり、復帰は5月になった。124試合出場で31本塁打を放ち、チームはリーグ2位だった。が、このシーズンを最後にセネタースはミネソタ州に移転し、チーム名もミネソタ・ツインズに変わった。
新生・ツインズとしての初年度、キルブリューはキャプテンとして任命され、打率.288、46本塁打、122打点を記録し、また自己最多の7本の三塁打も打った。同年7月4日にキャリア唯一のランニング本塁打を放ったが、これは新本拠地メトロポリタン・スタジアム初のランニング本塁打だった。
後年になるが、1967年6月3日にキルブリューが放ったホームランは520フィート(158.5m)を記録し、メトロポリタン・スタジアム最長のホームランだった。その落下地点になったスタンドの椅子は赤く塗られたが、後年スタジアムが取り壊された後、現在その跡地に建つ商業施設モール・オブ・アメリカにおいても、その椅子はそのままの位置(壁にくくりつけられている)で残っている。
キルブリューはホームのメトロポリタン・スタジアムでおこなわれた1965年のオールスターゲームに出場し、違う3ポジションで出場した初の選手となり、試合でも2点本塁打を放った。8月2日、ボルチモア・オリオールズ戦で守備中に肘を脱臼し、9月半ばまで戦線離脱してしまう。
しかし、キルブリュー離脱に関わらず、残ったチームメイトの奮闘もあって、後半戦28勝19敗を挙げてツインズはアメリカンリーグ優勝を果たした。このキルブリューの1965年レギュラーシーズンは脱臼による戦線離脱のため、25本塁打、75打点にとどまった。
そして、サンディー・コーファックスを擁するロサンゼルス・ドジャースが相手となった同年のワールドシリーズは、キルブリュー唯一のワールドシリーズ出場となる。第4戦で本塁打を放つものの、3試合もの完封負けもあって、シリーズはドジャースに敗れてしまった。
1969年、監督に熱血ビリー・マーチンが就任。キルブリュー自身も、7月5日のアスレチックス戦では自身最多の1試合6打点を記録、さらに9月7日の同アスレチックス戦では3点本塁打・満塁本塁打という離れ業で1試合7打点という固め打ちも記録した。チームの主軸として活躍、西地区優勝をも果たした。162試合フル出場を果たし、キャリアハイの49本塁打、140打点を記録し、1962年以来の本塁打・打点の二冠王を獲得し、さらにはアメリカン・リーグMVPにも輝いた。
1971年、キルブリューの年俸が10万ドルとなり、史上初の10万ドルプレイヤーとなるが、この頃より衰えが見えるようになる。同年のオールスターゲームが自身最後の出場となり、オールスター明けの8月10日の試合で500号本塁打を達成。シーズンでは打率.254、28本塁打、119打点と3度目のアメリカン・リーグ打点王となっている。
1974年5月のタイガース戦で550号本塁打を達成し、これを記念してツインズは8月に「ハーモン・キルブリュー・デイ」を開催し、キルブリューの引退後に自身の背番号『3』の永久欠番に指定される。このシーズンは打率.222、13本塁打、54打点を記録したが、同年12月、チームよりキルブリューにコーチ就任もしくは傘下マイナーチームの監督就任、あるいはチーム放出を通告された。が、キルブリューは現役続行を選び、ツインズを退団した。
退団後、1年契約でカンザスシティ・ロイヤルズと契約。このシーズンは106試合出場で打率.199だったが、14本塁打、44打点を記録した。翌1976年3月、キルブリューは現役引退を表明。
アメリカ野球殿堂には1981年が資格初年度だったが、通算打率.256、通算三振数も1699という点で殿堂入りは果たせなかったが、3年後の1984年には殿堂入りを果たした。
引退後は。ミネソタでスポーツキャスターとして活動。同時に企業家として保険、自動車販売、ファイナンシャルプランナーなどで成功。その後ビジネスを引退すると1998年に健康管理慈善団体、ハーモン・キルブリュー財団を設立とともに、これまでの事業を退任。アリゾナ州スコッツデールに移住、現地にて活動していた。2011年5月17日、食道ガンのためアリゾナ州スコッツデールの自宅で死去。74歳没。
※ボーナスルール;当時新人選手で4000ドル以上の契約金を結んだ新人選手は、MLBのロースターに2年間入れる特例。1965年にドラフト導入により廃止。