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「ミラクル・メッツ」の立役者、トム・シーバー

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「ミラクル・メッツ」の立役者、トム・シーバー

1969年、あの”あきれたメッツ”が、驚異の快進撃で地区優勝。さらに、プレーオフでブレーブスを3連勝のストレート勝ち。ワールド・シリーズでも、投打ともに圧倒的な強さを誇っていたオリオールズを一蹴し、世界一。「すべてが番狂わせ」と形容されるほど、神懸かり的な勢いで一気に頂点まで駆け上がった。

そんな奇跡のチームを、人は「ミラクル・メッツ」と呼んだ。その一番の立役者が“トム・テリフィック”こと、トム・シーバーだった。この暗黒街の顔役のようなあだ名の男は人々を熱狂させて、一躍ヒーローとなった。メッツ再建の象徴でもある。以来、エースとして君臨し、大リーグ20年間で通算311勝。1944年11月17日生まれ、カリフォルニア州出身。

シーバーが24歳という若さでメッツの顔となったことは、単なる出来事ではなく、メッツの歴史、そしてメジャー・リーグの歴史において重要な意味を持つ出来事だった。若きエースとしての誕生は、チーム、ファン、そして野球界全体に大きな影響を与え、野球史に永遠に語り継がれる伝説となった。

かつては万年最下位チームであったメッツが、シーバーを軸に一躍強豪チームへと生まれ変わったことは、野球界に大きな驚きと感動を与えた。
「坊やのことは知ってるぞ。いずれ引退するころは、この球場中がおまえのことを知っているよ。間違いない」
67年、球宴でハンク・アーロンは語り掛け、
「対戦した投手の中で、一番手ごわい相手」
と、いわしめた。

米国海兵隊で活躍した後に、フレスノ短期大学から南カリフォルニア大学に進んだシーバーは、1966年のドラフトでアトランタ・ブレーブスから指名を受けたものの、規定上の問題からブレーブスと契約することが出来ず、全米大学体育協会の指示により南カリフォルニア大学に戻ることもかなわなかった。

プロ球界に進むことも、大学に戻ることもできない状況に陥った。シーバーの父が訴訟により問題解決を示唆したことで、ウィリアム・エッカート、MLBコミッショナーが特別ドラフトを実施。フィラデルフィア・フィリーズ、クリーブランド・インディアンズ、メッツの3球団が参加し、最終的にメッツが交渉権を獲得した。

1966年にニューヨーク・メッツ入団。67年ナ・リーグ新人王に輝き、その69年には最多の25勝。浮き上がってくるような威力のある速球のイメージで、「ライジングファストボール」と呼ばれる剛速球を武器に、9年連続200奪三振など数々の記録も樹立。
「投球は腕や肩だけでなく、体でもっと大きな筋肉の太腿と尻の筋肉を使うべきだ」
との持論は有名。投球中のシーバーの右膝にはいつも泥がついていた。この投法は、「ドロップ・アンド・ドライブ(沈み込んでから発射)」と呼ばれる。

右膝が地面につくほどの重心の低いピッチングフォームから繰り出す速球は、計測されていないものの、ドジャースのドン・サットンが、
「トムの全盛期は、100マイル(約160.9キロ)は出ていた」
と、話すほど。それにチェンジアップも切れ味鋭く、1970年4月のパドレス戦では10連続奪三振含む1試合19奪三振と、当時の2つの記録をつくった。
「2度とこの記録には近づけないかもしれない。やれるだけやってみよう」
と、つぶやいた。低めに決まる速球を投げ込んだ。打者はバットを振ったが、かすりもしなかった。シーバーは史上最も輝かしい業績で記録に不滅の名をとどめた。同年すでにカージナルスのスティーブ・カールトン奪19三振を記録していたが、連続の奪10三振を記録したものはいなかった。

ある記者は、その試合の最後の2回、シーバーの投球ぶりは、
「画家が名作をキャンバスに描いているように見えた」
と、回想。
「6回が終了したとき、まさに展開されようとしていた記録更新の業績は考えつきもしなかった。試合は2−1で、2安打しか許していなかったが、圧倒的な内容とは思えなかった。ところが、終盤になって俄然投球にパワーがついてきた。回がすすむにつれ、彼の姿がビルディングのように大きく見えた」

シーバーは、最後の打者への投球内容については、
「変える必要があったかもしれない。外角ギリギリにはいるスライダーなんか、最適だったかもしれない。しかし、ホームランを打たれたことのある打者との勝負を考えると、ぼくはただ力いっぱい速球走らせた。その球で完投し、望みどおりななった」
奪三振は、68年から9年連続で200個以上。奪三振王5度、通算3640奪三振は、史上6位。サイ・ヤング賞3度、球宴選出12度、最多勝と、最優秀防御率は3度。

グローブを高く上げ、大きく振りかぶる、いわゆるオーバースローに近い。しかし、リリース時には腕が大きく沈み込み、ボールを下から叩きつけるような独特のリリースが特徴的だった。このフォームは、打者から見てボールの軌跡が見えづらく、タイミングを外させやすかったと考えられている。

その沈み込むような独特のフォームと、多彩な変化球を組み合わせた非常に高度なものだった。フォークボールを武器としていたが、それだけにとどまらず、カーブ、スライダー、チェンジアップなど、変化球を効果的に使い分けることで、カウントを有利に進め、打者を追い込むことができた。

それに、抜群の制球力があった。その制球力と変化球を活かし、高い奪三振率を記録した。むろん長いイニングを投げ抜くスタミナをも持ち合わせていた。落ち着いたマウンドさばき、若さを感じさせない落ち着きと度胸があり、ピンチでも動じない姿はチームメイトやファンを鼓舞したものだ。

トム・シーバーはある夜、遠征先からニューヨークに帰ると、本拠地・シェイスタジアムに直行した。駐車場から漏れる光のなか、ネットピッチングを行った逸話がある。だからといって、努力するとか没頭するとかは、強制的な義務でもないし、野球以外のすべてを犠牲にしなくてはならないということでもないと述べている。

1960年代初頭、メジャー・リーグは球団数拡張の時代を迎えた。メッツは、1962年、ナ・リーグのその拡張球団として誕生。ブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツが、1957年限りでそれぞれカリフォルニア州ロサンゼルスとサンフランシスコに本拠地を移転したことで、ニューヨークにナショナルリーグの球団は不在となった。市長や市民から切望されて1962年にメッツが創設され、初代監督にケーシー・ステンゲル、GMにジョージ・ワイスと元ヤンキースの顔触れを揃えたが、なんと前例のない40勝120敗と散々な成績。
「メッツの試合よりひどいのは、メッツのダブルヘッダーだけ」
と、嘆く有様。その後も最下位が続き、史上最も弱いチームといわれた。そんな敗北が日常茶飯事で、おまけに天才的な敗北手法と相まって、ファンは予想外の出来事、つまり勝利に出くわすとは信じられなかったのである。



ドジャースの強打者だったギル・ホッジス監督は、就任2年目だった。1969年、メジャー・リーグはまたも大きな変化があった。両リーグとも、12球団ずつになった。そこで、両リーグとも東西2地区制になり、メッツはナ・リーグ東地区所属となった。

メッツの下馬評は、当然ながら高いものではなかった。けれども、期待の声もあった。1967年に16勝で新人王に輝き、翌年も16勝した24歳の右腕トム・シーバーや、1968年に19勝した26歳の左腕ジェリー・クーズマンといった、若い投手たちが成長していたからだ。

開幕直後はいまひとつで、4月は9勝11敗と出遅れた。そこから徐々に調子を上げ、53勝39敗の東地区2位で前半を終えた。後半も2位を保つが、首位を快走するカブスとの差は縮まらない。8月13日には、3位に転落。カブスとの差は10ゲームあった。

ところが、ここから反撃をはじめる。強力投手陣がチームを引っ張った。その後49試合で38勝の快進撃。8月13日以降、公式戦閉幕までに10連勝と9連勝が1度ずつで6連勝が2度と爆発。140試合目の9月10日に単独首位に立ち、最終的には100勝を挙げ、2位のカブスに8ゲームもの差をつけてナ・リーグ東地区の初代王者になった。その間、シーバーは10先発して9勝0敗、防御率1.23、8月26日からは8試合連続完投、うち3試合が完封という衝撃的なピッチングで球団初の優勝に貢献。

先発ではシーバーが25勝で最多勝(7敗)。クーズマンが17勝9敗、ゲーリー・ジェントリーが13勝12敗。3人とも投球回数は200を超えた。後の奪三振王であるノーラン・ライアンがメジャー3シーズン目の22歳で、先発も救援も務めて6勝3敗の成績を残した。抑えには右のロン・テイラーと左のタグ・マグローを擁し、それぞれ13セーブと12セーブをマークした。

ポストシーズンでも、勢いに乗って突き進んだ。リーグ・チャンピオンシップ・シリーズで、ハンク・アーロンのいたブレーブスを無傷の3連勝で撃破した。

強打・剛腕投手を誇る名将アール・ウィーバー率いるオリオールズとのワールド・シリーズでは、第1戦をシーバーで落とすも、第2戦から4連勝。第5戦の最後はクーズマンがデービー・ジョンソンを左飛に仕留めた。4勝1敗で下し、球団創設8年目で初の優勝を果たした。シェイ・スタジアムは爆発的な騒ぎとなった。フィールドに押し寄せるファンは、ここぞとばかりになにもかも引っ剥がし、さながら大略奪団となった。

ワールド・シリーズ直前に、シーバーは、「ワールド・シリーズでメッツが勝ったら新聞に、“米国はベトナムから撤退すべきだ”との広告を出すつもりだ」、と語ったことがある。メッツが勝ったものの、それは内外からの反対から実現しなかった模様だが、政治意識も高かった野球選手でもあった。

「一つの時代の終わりを感じた」
と、ポツリ。1977年6月15日のトレード期限に、レッズへ電撃移籍。主砲のデーブ・キングマンと同時に放出された(キングマンは、ボビー・バレンタインらとの交換でサンディエゴ・パドレスへ移籍)。

成立が期限ギリギリ、つまり夜の12時近かったことから、このトレードは第二次世界大戦末期に米国で起きた戦争捕虜殺害事件になぞらえて「真夜中の虐殺」と呼ばれている。当時、史上最強強力打線「ビッグレッドマシン」と呼ばれた強豪レッズでも活躍し、2球団で計5度のポストシーズン進出を果たした。

そんな1977年、21勝6敗とすばらしい成績を残したが、78年のシーズン開幕当初は4連敗とさっぱりだった。ところが、6月の対カージナルス戦でノーヒット・ノーランをやってのけた。これが転機となって、シーズン最後は16勝14敗とした。

言い訳一つしなかったシーバーは、1勝目をあげたときはじめて、
「春季トレーニングで脚を痛め、十分に走り込みができなかった。それが開幕当初の不調につながったと思う」
と、勝ってから真相を公表した。そういう男なんだ。レッズでのプレー後、メッツに戻った。偉大なキャリアを思い出深いニュー・ヨークで終える、というコンセンサスのようなものが球団にもファンの間にもあった。ところが、復帰した年、つまり1983年のオフのこと、ニューヨークの英雄は突如としてホワイトソックスへの移籍を強いられてしまった。

当時のMLBはフリーエージェント選手を獲得するため、「リエントリー・ドラフト」という制度を採用していた。FA資格を持った選手を、全26球団が重複OKで指名するシステムである。一方で、Aランクの有力選手をFAで失ったチームは、他の25チームのプロテクトから外れた選手を「人的補償」として獲得できる。ただし当時のメジャー・リーグは、FA選手を獲得した球団だけでなく、全球団のプロテクト漏れ選手が補償の対象だった。

で、この年、大エースをFAで失ったホワイトソックスは他球団の「保護選手リスト」を確認し、メッツからシーバーが外れている事実を目ざとく見つけ、しれっと指名したというわけだ。メッツ側は大慌て。シーバーは40歳近いし、年俸も高いからプロテクトせずとも大丈夫だろうと高をくくっていたからだ。

嫌いやシカゴに向かったシーバーだが、話はここで終わらない。前年まで2年連続して1ケタ勝利に終わっていたアラフォー右腕は84年に15勝11敗、85年に16勝11敗という成績を残してしまった。その後、レッドソックスでプレーしたりと、現役生活を続けたが、1986年に引退。長く愛されたメジャー・リーガーとしてのキャリアに幕を閉じた。

デビュー以来13年連続200イニング以上、通算4783の投球回も投げ続けられた体力は、18歳で海兵隊のブートキャンプ(新兵訓練施設)での経験だ。
「これが、自分に体力だけでなく規律も養ってくれた」
と話しており、この訓練をメジャーになっても続けていたとされている。このようなウェイト・トレーニングの積極的な導入こそが、シーバーが球界に残した貢献の一つだった。現在では投手がウェイト・トレーニングをおこなうのは当然のことと思われている。しかし、1970年代初頭の大リーグでは、選手も指導者もウェイト・トレーニングに対して否定的ないし消極的な態度を示していた。

そんななか、シーバーは球速を向上せるために役立つと考え、ウェイト・トレーニングを日々の練習の中に取り入れた。さらに、体調管理を徹底し、冬のオフ・シーズンの体重増加を防ぐために、間食の際も高たんぱくのチーズなどを口にするよう注意していたのだ。

引退後は、放送局NBCでメッツとヤンキースのスポーツ・キャスターを務めた。野球の知識だけではなくゴルフ、フットボール、サッカー、バスケットボールとあらゆるスポーツを解説した。インテリ・シーバーならではの極めつきだ。野球と同じくらいゴルフやハンティングに熱中するし、コンサートに行くにもとても好きだった。

1992年に資格取得1年目で、当時史上最多の得票率98.84%で野球殿堂入りした。背番号「41」はメッツの永久欠番第1号であり、通算311勝のうち198勝はメッツで挙げたもの。2019年、本拠地シティフィールド前の126番通りが、「シーバー・ウエー」に改名された。米複数メディアによれば、晩年は認知症のため公の場から退き、新型コロナウイルスに倒れた。2020年8月31日、75歳だった。